四つの誤ったものの見方
あれから十一年であります。
本年も私どもは、鎌倉の中心である鶴岡八幡宮において、神道、キリスト教、仏教合同の追悼復興の祈りを行います。
正しいものの見方をして、苦しみから脱するというのが仏教の教えであります。
われわれは、誤ったものの見方をしていて、そのことが苦しみの原因になっているのだと説いています。
ではいったい誤ったものの見方というのはどういうものでありましょうか。
この誤ったものの見方を四つあげています。
これを仏教では「四顛倒」と申します。
顛倒というのは、もともとはひっくり返ることという意味で、そこから真理にもとった見方、在り方、誤謬(ごびゅう)をいうのであります。
この四顛倒が、常楽我浄の四つなのであります。
常楽我浄というと、延命十句観音経にも出てくる言葉ですが、延命十句観音経で使われている意味とは、元来異なっているのであります。
もともとは、無常・苦・無我・不浄であるのに、逆に常・楽・我・浄であると誤解することなのです。
この世は無常です。一瞬のうちにうつり変わってゆくものです。
刹那滅ということも説かれています。
一刹那という教えもあるのです。
無常と言う事がもっとも強調して説かれています。
一刹那というと一秒間の七十五分の一であると言われます。
あらゆるものは一刹那の間だけ存在して滅するというのであります。
その刹那の消滅を繰り返しているのですが、いつも常に変わらないと思いこんでいるのです。
私は、よくお寺で無常の話をするときに、今目の前にある柱が朽ちつつあるのが見えますかと問うのであります。
お寺の本堂の柱などはしっかりしていて、とても変化しているようには見えません。
少なくとも見ている間は変わらないように見えます。
畳も今色が変わっているのが見えますかと聞いてみたりします。
今目の前で色が変わりつつあるとは見えないのです。
これが顛倒なのです。
どんな建物でも、百年二百年も経てば朽ちてきます。
朽ちるというのはある朝突然朽ちるのではありません。
毎年毎年わずかながら朽ちてゆくのです。
毎年毎年朽ちてゆくということは、一日一日でも変化があるはずなのです。
もっと微細にみれば一瞬のうちにも変化しているはずなのです。
畳の色も変わります。
何年も経つと真っ茶色になります。
青々した新しい畳がある朝突然茶色になるのではありません。
一年一年、時々刻々うつり変わってゆくのです。
私たちの体もそうなのです。
鏡を見ると昨日の自分と同じ顔をしているように見えますがそれが顛倒です。
何十年経ってある朝突然老けるのではないのです。
一年一年年をとって変化しているのです。
ということは一日一日でわずかでも変化しています。
更に一瞬一瞬うつり変わっているのです。
そのようにうつり変っているのに、昨日と同じ、いつものと同じように思っているのが、誤ったものの見方、顛倒なのです。
1985年8月に起きた「日航ジャンボ機墜落事故」で亡くなった歌手の坂本九さんに、永六輔さんが弔辞で読まれた言葉が、
「昨日と今日は、偶然並んでいただけでした。
今日と明日は、突然並んでいるのでした。
だから明日の無い時もあるのです」というものでした。
昨日と今日はいつも変わらずにあるというのが顛倒です。
無常といえば、なんといっても十一年前の今日を思います。
誰も想像だにしていなかったことでした。
ほんの一瞬ですっかり変わってしまいました。
あまりにも急激な変化なので、受け入れ難いものだったのです。
三月十一日の午前中、なにげない景色が、午後になってすっかり変わってしまったのでした。
あれほど無常ということを実感させられたことはないと思います。
あのあとも、時々刻々うつり変っているのであります。
この世は思うにまかせない苦であるというのが真実です。
それなのに楽しいと思うのが顛倒であります。
生まれたことも、年をとることも、病になることも、死ぬこともみな苦であります。
愛する人と別れることも、嫌な人に会うことも、求めても得られないことも、この身心に感じることは皆苦であります。
独立した我というものは無いのに、我があると思いこんでいるのが顛倒であります。
常に変わらない、単独で成り立ち他からの支配を受けないのが我であります。
そんな我というものはないというのが真理です。
この体も元来不浄です。清らかではないのです。
それなのに、きれいにしてきれいになっていると思うのが顛倒であります。
伝統の仏教の修行では、四念処と言って、四つの観察を大事に行っていました。
身体と感受と心と法の四つを、順次、浄、楽、常、我と誤解することが四顛倒です。
それを退治するために体は不浄である、感受は苦である、心は無常である、諸法は無我であると観察してゆくのであります。
『宝積経』という経典には、常楽我浄という四つの顛倒を治療するために、
諸行無常、一切皆苦、諸法無我、涅槃寂静の四法印を説いています。
こういう教えであったのが、大乗仏教になると大きく変化してゆきました。
『大般涅槃経』では、常楽我浄を涅槃の四つの徳であると説くのであります。
涅槃、すなわち悟りの世界は、永遠であり、楽であり、常に変わらぬ浄らかなのです。
仏心といっても同じなのです。
仏心は永遠であり、苦しみは無く楽であり、常に変わらず浄らかなのであります。
延命十句観音経にある常楽我浄というのは、観音様の慈悲の心が常に変わらぬ常楽我浄であると讃えているのであります。
本日三月十一日、世の中は無常であり、いつ何が起きるか分からない、思うにまかせない苦であり、自分一人では生きられない、そして浄らかではないことを改めて思い返して、それと同時に変わることのない、安らかで清らかな慈悲のこころ、仏さまの心を思うのであります。
横田南嶺