いつも気をつけていること
一橋大学には、如意団という坐禅の会があって、学内に坐禅堂もあるのです。
コロナ禍になる前の2019年まで、私は毎年一橋大学の坐禅堂に行って、学生さんたちと坐禅をしてきたのでした。
2020年と2021年とは、コロナ禍となって、坐禅に行けるような状況ではなくなってしまい、しばらく御無沙汰していたのでした。
久しぶりに数名の学生さん達が、円覚寺に来て坐禅されたのでした。
そのあと、しばし懇談の時間を設けてくれました。
活発な質疑応答がなされたので、驚きました。
いろんな質問があった中で、普段から気をつけていることは何ですかという質問を受けました。
そう問われて、とっさに口をついで出た言葉が、
「まずいつも腰骨を立てることです」
でありました。
残念ながら、学生さんたちの姿勢を拝見すると、坐禅していた時には背筋を伸ばして坐っていたのでしょうが、椅子に坐ってお茶を飲むときには、すでに姿勢が崩れてしまっています。
いつも腰を立てていること、これが一番ですと答えました。
次に、いつもほほえんでいることだと答えました。
不機嫌はよくありません。
不機嫌は環境破壊だとどなたかが言っていたことを思います。
周囲の迷惑になります。
いつも上機嫌で、ほほえんでいることが大事だと申し上げました。
静かにほほえんでいられれば、まず問題はありません。
一粒でも播くまい、ほほえめなくなる種は
どんなに小さくても、大事に育てよう、ほほえみの芽は
この二つさえ、絶え間なく実行してゆくならば、
人間が生まれながらに持っている、
いつでも、どこでも、なにものにも、ほほえむ心が輝きだす
人生で、一ばん大切なことのすべてが、この言葉の中に含まれている
(松居桃樓『微笑む禅』)
というこの言葉は、仏教の教えのなかでも精髄であります。
それから、いつも楽しんでいることだと申し上げました。
学生さん達との懇談の前に、マーケティングの専門家の方と話をしていました。
どんなものがヒットするのか、それは便利さと、楽しさの追求だというようなことを仰っていました。
ところが、この便利さというのは、もはや便利になりすぎてしまって、いまや便利さの追求には限界が来ているということです。
たしかに「不便益」という言葉もあるくらいです。
そうなると大事なのは楽しさということです。
究極は、どれだけ楽しんでいるかが勝負だというのであります。
子曰わく、之を知る者は之を好む者に如かず。之を好む者は之を楽しむ者に如かず。
という言葉が『論語』にあります。
知っているというのは好むのには及ばない。好むというのは楽しむのには及ばないということです。
楽しむということなら、私も常に心がけています。
そこで禅の修行というのは、楽しむということにもたいへんよいものがあります。
なにせ呼吸することを楽しむことができます。
呼吸ほど深いものはありません。
飽きることもありません。
坐ることを楽しむこともできます。
坐るということがなかなか難しくて、これも飽きることがありません。
立つことも楽しめます。
立っていることは難しいものです。
歩くことも楽しめます。
一歩一歩歩くこと自体を楽しむのであります。
お茶をいただくことも楽しめます。
毎回の食事も楽しむことができます。
禅の修行というのは、行住坐臥、何をしていても楽しむことができるものだと思うのであります。
楽しむことと、もうひとつ付け加えたのは、新しいことを学ぶことです。
月刊『致知』というのを読んでいて、ドラッカーの言葉が載っていて感銘を受けました。
ドラッカーが二十世紀末に近未来を予測して、
「二十一世紀に重要視される唯一のスキルは、新しいことを学ぶスキルである。
それ以外はすべて時間と共に廃れていく」
という言葉を残しているのだそうです。
新しいことを学ぶ、これは大事なことであります。
私も今年になって新しく学ぶことに挑戦しています。
新しく初心者になって学ぶことは、身心を新鮮にしてくれます。
ということを学生さんに話をしました。
いつも心がけていることは、腰骨を立てること、いつもほほえんでいること、なにごとも楽しんでいること、新しいことを学ぶこと、そんなところです。
学ぶことと楽しむこととは共通しています。
『論語』に、
「学びて時にこれを習う、またたのしからずや」
とある通りであります。
あとは、最善観、どんなことが起きてもそれでいいと思うようにすることです。
学生さんが待ち合わせ場所でうまく人に会えなくてイライラしたりするときはどうしたらいいかと問われました。
うまくゆく時もあれば、うまくゆかない時もある、それだけです。
数年前に作家の童門冬二先生にお目にかかった折に童門先生は、
「何が起きても、ただそのような現象が起きているだけであって、誰が悪い、彼が悪いということはない。
世の中は、ただそういう現象が起きているだけだと思って、自分も他人も決して責めることはしない。」と仰っていて、なるほどと思ったことでした。
童門さんは、お元気で長生きして、活躍していらっしゃるのも、こういう達観したところがあるからなのかもしれないと思いました。
学生さんたちと会う時には、緊張されて話が弾まないこともあるのですが、今回の学生さんたちは、物怖じすることなく、次々と質問をしてくれて、楽しいひとときでありました。
横田南嶺