何が恐ろしいか
菩提薩埵は、悟りを求める人のこと、もともとは悟りを開く前のお釈迦さまのことを言いました。
菩提薩埵が短くなって「菩薩」になったのです。
大乗仏教では、人々を救済するための菩薩も説かれるようになりましたが、基本的には、悟りを求める人のこと菩薩と言います。
「諸々の求道者の智慧の完成に安んじて、人は心を覆われることなく住している。心を覆うものがないから恐れがなく、」と、岩波文庫の『般若心経、金剛般若経』には訳されています。
智慧を完成することによって、心に覆うものがなくなって、恐怖がなくなるというのであります。
罣礙というのは、妨げるもの、束縛するものということです。
恐怖がなくなるというのは、有り難いことであります。
施しには三種類あって、物を施す財施、教えを施す法施、それに無畏施であります。
無畏施というのは、恐怖を取り除いてあげることをいいます。
また「施無畏」という言葉もあります。
何ものをも恐れないようにしてあげることです。
『観音経』にも出てくる言葉です。
では、いったい何を恐れているのでしょうか。何が恐ろしいのでしょうか。
修行僧達に質問してみました。
いろんな答えがかえってきました。
自然災害が恐ろしいという答えもありました。
人が恐ろしいという答えもありました。
別れが恐ろしい、病気が恐ろしいというのもありました。
人の心が恐ろしいという答えもありました。
若い者たちたが数名、人が恐ろしいと答えたのには少々驚きました。
確かに人間というのはやっかいなものであり、恐ろしいものであります。
何をしでかすか分からないのが人間です。
人の心というのも同じことでしょう。
しかし、以前に嫌な人はいない、嫌だと思う自分がいるだけという言葉を紹介したことがありますように、仏教では恐ろしい人いうものが、対象としてあると考えるのではなく、私たちが、その人に会い、目で見て耳で声を聞いて、怖いなとか、嫌だなとかという思いを作り出して、恐ろしい、嫌な人というのを作り出しているのであります。
災害にしても似たところがあります。
災害を作り出すのは人だと私は思っています。
人が自然環境を破壊しているという意味ではありません。
たとえば誰もいない山の中で崖が崩れても、災害とは言いません。
単に山が崩れただけです。報道もされないこともあるでしょう。
しかし、そこに人がいたら災害となるのです。
よく「蛇縄麻の譬え」というものを仏教では用いることがあります。
夜道に「縄」が落ちていました。
暗いものですから、これを「蛇」だと思って驚きました。
しかしながらよくよく見るとそれは「縄」だったので、縄だと分かれば安心することができます。
そしてさらに思い凝らしてみるとその「縄」も元は「麻」でできたものであり、「麻」が集まったものが「縄」となっているのだと、「縄」の本質に気づいたという話なのです。
よく分からないのに「蛇」だと思って驚き恐れるのは、「遍計所執性」(へんげしょしゅうしょう)と言います。
また「麻」が集まって「縄」となっていることを「依他起性」(えたきしょう)と言います。
最終的に「縄」が「麻」であったと気づくのを「円成実性」(えんじょうじっしょう)と言うのです。
杯中の蛇影という古い言葉があります。
むかし中国の河南で役人をしていた楽広という人が、無二の親友を招いておもてなしをしました。
ところが、そのあと、その友人がすっかり来なくなってしまいました。
足がばったりと途絶えてしまったので、理由をただしてみたところ、かつてごちそうになったおり、杯の酒に蛇(へび)の影が映り、それがもとで気分が悪くなって寝ついてしまったというのであります。
これを聞いた楽広は、もう一度、その客を招待してごちそうしました。
同じように酒を注いで蛇影が映るかどうか聞いたところ、見えるというのです。
よくみると壁に掛けておいた弓が映っていただけだったのであります。
以来、その親友の病気は、けろりと治ったという故事によるものです。
とある動物園のはなしですが、「世界で一番恐ろしい動物」という看板を掲げた檻があったらしいのです。
「何の動物だろう」と思って、おそるおそる近づいて見ると、その檻の中には、動物はいませんでした。
その中には、「鏡」が置いているだけでした。
檻の中を覗いたら自分の姿が映るようになっていたというのです。
つまり、本当に怖い恐ろしい動物は、「あなたですよ。」ということなのでしょう。
私の邪な思いが、さまざまな恐れを生み出しているということをよく知ることが大切であります。
恐れといっても、自分の心が生み出しているものだと気がつくことです。
五蘊という五つの構成要素によって、作り出されたものです。
五蘊は、身体と感受作用と、想念と意志と認識であります。
見たり聞いたり体に触れて感じたことに、何か思いを抱いて、さらに意志をもって、認識を作り出します。
そのように五蘊によって作り出されたものは、夢の如く、幻の如く、空なるものと明らかに知ることであります。
明らかに知ることによって、こころにわだかまるものがなくなって、恐れがなくなるのだと『般若心経』で説いているのです。
人が怖いというのも大事な気づきですが、己が怖いと気がつくことに一層深いものがありますし、そして恐れは自分の心が作り出していると気がつくことが肝要であります。
横田南嶺