最善観 – 世の中すべておかげさま –
今月の末に、大祥忌の法要を務める予定です。
老師は、昭和七年のお生まれでした。
大阪の歯医者の家に生まれました。
幼い頃より、医師になる予定で育てられたそうです。
ところが老師は幼い頃から体があまり丈夫でなかったらしく、当時「煙の都」と呼ばれた大阪では育たないのではないかといわれ、父方の祖母の里に当たる兵庫県の田舎で養育されたのでした。
四歳で両親の許を離れたのでした。
昭和二十年の春、大阪に帰って高槻の中学から当時の大阪医専へ入るコースを歩むつもりで、中学受験のために大阪に帰る支度をしていました。
ところが大阪大空襲になってしまい、大阪の中心部はほとんど全燃してしまったのでした
老師が中学を受けるための受験票が、この時家もろとも燃えてしまったというのです。
中学受験のために大阪へ帰る支度をしている老師のもとに、両親から「ヤケタカエルナ」という電報が届いたのでした。
やむなく田舎の中学に入ったのでした。
ところが中学は隣りの郡にあって、祖母の実家からは通学できません。
そこで遠縁の人を頼んで、その檀那寺へ下宿させてもらうことになりました。
寺に下宿しながら、老師は吉川英治作の『宮本武蔵』六巻が寺にあったので、暇さえあればそれを読んでいたのでした。
剣豪宮本武蔵をもってしても頭の上がらない人物が沢庵和尚であり、愚堂和尚であることに感銘を受けられ、しかも沢庵和尚は但馬の出身であることからも特に親しみを感じ、いつしか褝の世界に惹きつけられていったのでした。
初めは下宿していたのですが、戦争に負けた後の当時の日本はだんだん食糧事情が悪くなり、下宿料を五円か十円値上げしてほしい、さもなければお寺に養子に来てもらいたいと二者択一でせまられることになったというのです。
当時の足立家ではこの下宿代の値上げには応じることはできなかったのでした。
老師はご生前よく笑い話のように、「皆はご縁があって坊さんになるけれど、私はごえん(五円)が足りなくて坊さんになったんだ」と仰せになっていました。
優秀な老師は、京都大学にお入りになりたかったそうなのですが、それもあきらめることになりました。
不遇な境遇を過ごされながら、そんなこともすべて「ご縁」なのだとお話くださっていました。
「ご縁と受け取るその人は世の中すべておかげさま」と仰っていたのでした。
森信三先生は、『修身教授録』の中で「最善観」ということを説かれています。
この世に起こる一切のことは、すべて絶対必然で絶対最善であると受け止めることです。
「逆境は神の恩寵的試練なり」というのも森先生のお言葉です。
須磨寺の小池陽人さんが先日YouTubeでいい法話をなさっていました。
「ご存じですか?幸せ眼鏡」という話であります。
絵本セラピーを勧められている岡田達信さんのお話であります。
岡田さんが、あるお店に入った時の話であります。
注文してもなかなか思うようにゆかないお店だったのでした。
さんざん待たされて、注文したものができないと言われて、また別のものを注文したそうなのです。
それでも岡田さんは、それを食べる為にここに来たのだと思ったというのです。
食べ終わって岡田さんが、ごちそうさまでしたと言って店を出るのですが、お店の人は、顔もあげず挨拶もなかったというのです。
普通ならば、腹を立てて文句を言ったり、苦情を言ったりしてしまうような状況なのですが、岡田さんは、
「全然気にならなかった。
起きる出来事というのは無味無臭、無色透明なのだ。
それにどうやって色づけしたり、味つけしたりするかは自分次第ですよ」と、小池さんにおっしゃったというのであります。
小池さんは、これは法話だと感動されたのでした。
そこで弘法大師の
心暗きときは
すなわち遇うところ
ことごとく禍なり。
眼明らかなれば、
途に触れて皆宝なり
という言葉をお示しくださっていました。
須磨寺の先代管長小池義人和上は、幸せ眼鏡ということを仰ったそうです。
「赤色の眼鏡をしたらまわりはすべて赤色に見える、
もし仮にこの世に幸せ眼鏡というのがあったとして、その眼鏡をかけて周りをみたら全部感謝に満ちあふれているように見える。
そういう眼鏡があれば感謝の気持ちで幸せに生きてゆくことができる」とお話くださっていました。
そしてその幸せ眼鏡というのは何かというと知足の心だというのであります。
そんな小池さんの法話を聞いて、日本講演新聞の二月二十八日号を読んでいて、その社説に感動する話がありました。
とある会社の社長の話です。
社員が人身事故を起こしました。
被害者は、意識不明、加害者の社員と共に謝罪に行ったという話です。
被害者の奥さんと娘さんに会うことができたのは、三週間ほど経ってからでした。
社長は、「どんな言葉を投げつけられても受け止める覚悟で病院へ向かった」そうです。
奥さんは社長に会うなり、深々と頭を下げてこう言ったというのです。
「三週間も待たせてしまって申し訳ございません。
私の気持ちの整理が付くまで少し時間を要しました」
意表を突く言葉に目から涙が溢れたというのです。
そして更に
「よかったらうちの人に会ってください」と言われ、病室に入りました。
呼吸器を着け、意識もなくベッドに横たわっていて、社長と加害者の社員とはただ頭を下げ、謝り続けました。
そんな二人に奥さんは声を掛けました。
「うちの主人は他人の悪口を全く言わない人でした。
おそらく口が利けたら、
『A君(加害者)は悪くないよ。
僕も急いでいたから出会い頭にぶつかったんだよ』、
主人はそう言うと思います」と。
それから十六年、意識は戻らないままですが、自宅に介護用品を届けお見舞いを続けているという話です。
「被害者にとって一番つらいのは忘れられることです。私に今できることはこれだけですから」という社長の言葉は胸打つものであります。
そして社説では、まもなく十一年を迎える東日本大震災のことに触れています。
先代管長の三回忌を控えて、「ごえんが無くて坊さんになった」と笑っておられた老師を思い出し、小池さんの有り難い法話を拝聴して、この世に起こる一切のことは、すべて絶対必然で絶対最善であると受け止めること、最善観を思いました。
もっとも不慮の事故に遭うことなどは、最善観とはとても言えるものではありません。
しかし、すでに起こった出来事をなくすことはできません。
そのあとを、最善の生き方をしてゆくしかないのであります。
日本講演新聞の記事からそんなことを学びました。
横田南嶺