青松の心
直接に名を呼ぶことを避けて、そのお住まいになっているお部屋の名をお呼びするという習慣があるのです。
その名を直接呼ぶことを避けるのは、中国の古い思想だと思います。
とりわけ高貴な方になると、名を直接に呼ぶことは憚られたのでありましょう。
円覚寺の場合ですと、今北洪川老師は、蒼龍窟という室号を用いておられました。
釈宗演老師は、楞伽窟であります。
窟というのは、ほら、あな、いわやの意味ですが、粗末な洞穴に住んでいるようにご自身を謙遜して言われたのでした。
先代管長の足立大進老師は、栽松軒と仰せになっていました。
そこで私どもでは、前管長のことをお呼びするには、栽松老大師というのであります。
窟や軒というのは、洞穴や粗末な軒という意味で、ご自身でへりくだって言われた言葉ですので、こちらからお呼び申し上げるときには、窟や軒を抜いて、栽松老大師と申し上げます。
栽松というのは、『臨済録』にある故事がもとになっています。
岩波文庫『臨済録』にある入矢義高先生の訳を引用させてもらいます。
「師が松を植えていると、黄檗が問うた、「こんな山奥にそんなに松を植えてどうするつもりか。」
師「一つは寺の境内に風致を添えたいと思い、もう一つは後世の人の目じるしにしたいのです」、そう言って鍬で地面を三度たたいた。
黄檗「それにしても、そなたはもうとっくにわしの三十棒を食らったぞ。」
師はまた鍬で地面を三度たたき、ひゅうと長嘯した。
黄檗「わが宗はそなたの代に大いに興隆するであろう。」
というものであります。
山奥に松を栽えていたという臨済禅師の逸話であります。
松には、どんな意味があるのでしょうか。
『論語』には、こんな言葉があります。
「子の曰わく、歳寒くして、然る後に松柏の彫むに後るることを知る。」
というものです。
岩波文庫『論語』の金谷治先生の訳を引用します。
「先生がいわれた、「気候が寒くなってから、はじめて松や柏が散らないで残ることが分かる。人も危難の時にはじめて真価が分かる。」」
という意味であります。
たしかに今のような寒い時期になると、樹木も葉を落としているものが多くあります。
冬の山は寂しい感じがします。
しかし、そんな中に在っても、松の緑は変わることがないのであります。
『論語』に松柏とありますように、松と共に柏もそうです。
柏といっても、柏餅にする柏ではありません。
柏槇という常緑の樹木であります。
円覚寺には開山の無学祖元禅師、仏光国師がお手植えになったという柏槇があります。
本当であれば樹齢七百余年でありましょう。
じつに大樹であります。
開山の語録を読むと、鎌倉へ来られて、円覚寺や建長寺に松の木と柏槇の木を植えたと書かれています。
その時に植えたものが、今もこうして残っているのかもしれません。
これも臨済禅師の故事にならったものと思われます。
松と共に柏槇を植えたということも、『論語』にある通りに、寒い時期にも色を変えないことを尊んだのだと思います。
仏教と樹木というのは関わりが深いと思います。
お釈迦さまがお生まれになった時には、無憂樹の下でした。
おさとりを開かれたのは菩提樹の下であります。
お亡くなりになったのは、沙羅双樹の下でありました。
『涅槃経』には、
「仏樹陰涼の下に住する者は、煩悩諸毒悉く消滅することを得る」という言葉があります。
大きな大木の下で坐っていると、煩悩や諸毒、もろもろのけがれが自然と消えてなくなるというのです。
特にインドの国は暑いところですから、木陰というのはとても有り難いものでありました。
前管長は栽松軒であり、前管長は、私に青松軒という室号をつけてくださいました。
そこで、恥ずかしながら、私は臨済宗で正式には青松軒というのであります。
青松軒の室号をつけていただいて、師家となったのは、まだ三十代でありました。
青いという字には、若いという意味もありますので、まだ若かったのでありました。
それからもう二十四年も経つのであります。
諸橋轍次先生の『大漢和辞典』には、「青松心」という言葉が出ています。
それは、「松の緑が変わらぬように、変わらぬ節操」という意味が書かれています。
どんな時代にあってもどんな苦難にあっても変わらぬ心を大切にせよとの教えであります。
「玉は泥中に向かって潔く、松は雪後を経て貞なり」という禅語があります。
玉は泥の中にあっても泥に汚されることなく清らかであるし、松は雪が降っても色を変えることがないという意味であります。
京都の千真工藝という、臨済宗の各派管長の墨跡をカレンダーにしている会社があります。
今年で創立五十年を迎えるそうです。
円覚寺も朝比奈宗源老師の頃からカレンダーの書を書かせてもらっています。
私も先代の足立老師のあとを引き継いで書かせてもらっているのです。
今年は、二月に「松は雪後を経て貞なり」と書かせてもらいました。
二月は前管長のご命日の月なので感慨深いものがあります。
このカレンダーの書を先日愛媛県大洲を訪ねた時に、見つけたのでした。
このYouTube法話をお聴きくださっているという四国の方から、以前「盤珪餅」というお菓子を送っていただいたことがありました。
盤珪禅師のお菓子だったので、有り難く頂戴したのでした。
先日大洲の如法寺を訪ねた折に、その和菓子屋さんを探して訪ねました。
残念ながら、「盤珪餅」は盤珪禅師の開山忌の頃にのみ作るらしく、注文を受けて作るそうなのです。
盤珪最中がありましたので、そちらと月窓餅を購入しました。
お店の方が、僧衣姿の私に、どちらのお坊様ですかと聞かれました。
お店にはなんと千真工藝のカレンダーがかけてあり、ちょうど二月でしたので、私の「松経雪後貞」の書がかかっているのでした。
そこで、私はこの字を書いた者でありますと、申し上げたのですが、お店の方は怪訝そうな感じでありました。
水戸黄門ならば、すっと印籠を出すのでしょうが、本人であることを示すのが難しく、名刺だけを置いてきたのでした。
松は雪後を経て貞なりと書いても、青松の心はまだまだ私には十分得られていないからだと反省したのでした。
そのお店では如法寺の開山忌の頃に、盤珪餅を作って、お供えしてくださっているとのことでした。
どんな時代にも変わらぬという心は有り難いものです。
横田南嶺