行の厳しさ
坂村真民先生に、「生きてゆく力がなくなるとき」という詩があります。
生きてゆく力がなくなるとき
死のうと思う日はないが
生きてゆく力がなくなることがある
そんな時お寺を訪ね
わたしはひとり
仏陀の前に座ってくる
力わき明日を思う心が
出てくるまですわってくる
という詩であります。
この詩は、もとは「エリ・エリ・レバ・サバクタニ」という題の長い詩のなかの一節でありました。
そのもとの詩には
「そんな時お寺を訪ね」のところが、
「そんな時大乗寺を訪ね」になっています。
それが、曹洞宗のポスターになるときに、「大乗寺」を「お寺」にしたということです。
この詩は、何度読んでも心に響くものがあります。
私がこの詩にであったのは、まだ高校生の時でありました。
人は、誰しも生きてゆく力のなくなる時がある、そんな時を持ちながらも生きてゆかねばならないと思ったものでした。
そして、そんな時にこそ、お寺に行って坐禅をするのだということを学び、私の生き方の核心となっていったのでした。
やがて、お寺に行くのではなくて、お寺が居場所になったのでした。
その大乗寺に今から十四年前に入ったのが、私の友人である河野徹山老師であります。
河野老師は私より二歳年下なのですが、大学時代に共に坐禅をした仲であります。
同じ筑波大学の後輩でありました。
私は、ずっと僧堂で修行だけしてきましたので、同級生や同窓生とお付き合いをすることがありませんでした。
しかし、河野老師だけは同じ道に進んだということもあって、実に四十年来のお付き合いをいただいているのであります。
河野老師は、平林寺で出家され、そのまま平林寺で修行されました。
そして平成二十年に大乗寺の老師となられたのでした。
まさか、坂村真民先生ゆかりのお寺に入られるとは、驚いたのでした。
それから、大乗寺には何度も足を運んでいるのであります。
河野老師は、大乗寺に入られて丸十年かけて境内の整備を成し遂げられました。
その時の法要にも参りました。
十年のご苦労を讃えたのでしたが、その年の夏に西日本集中豪雨があって、大乗寺は、大きな被害を受けてしまったのでした。
老師のご心労はいかばかりかと察するにあまりあるものでありました。
それから更に復興もほとんど成し遂げられてきたのであります。
このたびもコロナ禍でありますが、大乗寺の開山忌に併せて、先住の沢井老師の十七回忌と碓嶽老師百五十年諱を行ったのでした。
その法要に招かれて四国に行ったのでした。
宇和島に行く途中で大洲の如法寺にお参りしました。
如法寺は盤珪禅師が開山された大寺院であります。
四年ほど前に一度お参りしたことがあるのですが、寺の奥にある開山堂奥旨軒にはお参りできなかったので、今回再びお参りしたのでした。
お寺の案内には、奥旨軒には十五分ほど歩くと書かれていました。
以前訪れた時に奥旨軒に行けますかと聞くと、草履では無理だと言われましたので靴を用意してゆきました。
かなり急な山道を登った上に盤珪禅師の奥旨軒がありました。
山道のところどころにイノシシが土を掘り返したような跡がありました。
そんな山奥の霊気満ちるところに小さなお堂が建っていました。
その雰囲気に圧倒されました。
峻厳な人を寄せ付けぬ感じなのであります。
盤珪禅師は、この奥旨軒で修行僧数名を参禅指導されていたのです。
途中に藩主と面会したという庵の跡がありました。
藩主といえども、この奥旨軒までは上らせなかったというのであります。
奥旨軒の跡にたたずむと、盤珪禅師の厳しさが伝わってきました。
盤珪禅師の法語を読んでいると、穏やかな口調でやさしく、人は誰しも仏心をもっていると説いてくださっていますが、その裏には厳しい、人を寄せ付けぬような修行があったのだと思い知らされました。
大乗寺での法要のあとには、時間の余裕があったので、岩屋寺にお参りしてきました。
こちらは一遍上人が御修行されたところでもあります。
ところどころに雪が残る参道をかなり歩いて登りました。
こちらも実に霊気満ちるお山でありました。
一遍上人は、延応元年(一二三九)のお生まれで正応二年(一二八九)に数え年五十一歳でお亡くなりになっています。
伊予(愛媛県松山市)の豪族である河野家の次男としてお生まれになっています。
生誕の地が宝厳寺であります。
十歳の時、母が亡くなり、父の命によって、仏門にはいりました。
太宰府の聖達上人のもとで浄土の教えを学ばれました。
信濃の善光寺に行った後に、故郷に帰り、窪寺という閑室に籠り一人念仏三昧の修行をなされています。
この窪寺の跡にも、数年前に西澤孝一さんのご案内で訪ねたことがあります。
このときに、阿弥陀様は十劫という遠い昔に成仏されたのだが、十劫の昔の成仏と今の一念の念仏とは同時であると気がつきました。
そうしますと、極楽とこの世は同じことでどこにいても阿弥陀の教えに浴することができるという確信を得られました。
そして、文永十年(一二七三)三四歳で岩屋寺での参籠を経て、家や土地など一切を捨てた遊行の旅に出られました。
一遍上人は遊行で出会った人々に「南無阿弥陀仏」と書かれた念仏札を配られました。これを「賦算」と申します。
岩屋寺は、一遍上人にとって大切な修行の寺なのです。
さらに三十五歳で、熊野本宮に参籠して、熊野権現の啓示を受けられました。
「信心があろうとなかろうと、心が浄らかであろうとなかろうと、人を選ぶことなく念仏札を配るべきである。」という教えでした。
これが時宗の始まりでもあります。
そののち四国、中国地方、京都、信州、関東、東北へと一処不住の生涯を送られました。
そのように全国各地を巡り、正応二年(一二八九)数え年五一歳の時、神戸の観音堂(現・神戸市兵庫区、真光寺)において示寂されました。
盤珪禅師といい、一遍上人といい、親しみやすい祖師でありますが、如法寺奥旨軒や岩屋寺を訪ねて、その背景には人をも寄せ付けぬ厳しい行があったのだと、しみじみ感じることができました。
横田南嶺