南の枝は暖かい
昭和十一年二月二十六日、二二六事件の日であります。
明日は二十七日、円覚寺の第四日曜日の日曜説教であります。
コロナ禍になって長らく第四日曜日のお説教はお休みしていましたが、先月ライブで開催しました。
第二日曜日と、第四日曜日に定例の法話を行っています。
第二日曜日が管長の法話、第四は円覚寺派の和尚様方が交代でつとめてもらっているのです。
明日の二十七日は、私がただいま円覚寺山内の大勢の和尚様方の中で最も尊敬申し上げている寿徳庵の和尚様がつとめてくださいます。
今からちょうど三十年前、寿徳庵の和尚様はお身内を亡くされる、悲しい別れを体験なされています。
私は当時まだ二十代の修行僧でした。
寿徳庵様は参道から高いところにあって長い階段を上らなければなりません。
病院から帰ったご遺体を担いであがり、葬儀のあとの出棺にもお棺を担いだ記憶があります。
あれから三十年経ってようやく、「奇跡の命 – 家族の白血病闘病から学んだこと –」と題してお話くださいます。
是非ご視聴願います。
毎日新聞の二月二十二日の「余録」には、
「傲慢(ごうまん)、嫉妬(しっと)、憤怒(ふんぬ)、怠惰、強欲、暴食、色欲はキリスト教の七つの大罪という。
ある著書は、それにちなんで世論を害する七つの大罪を挙げている。
憎しみ、非寛容、疑惑、頑迷、秘密、恐怖、うそ――だ。
米評論家、リップマンが書いたマスコミ論の名著「世論」である。」
という文章から始まっています。
「憎しみ、非寛容、疑惑、頑迷、秘密、恐怖、うそ」というのは、残念ながらいつの時代にもなくならないものであります。
世俗を捨てて僧になったからといっても、これらが完全になくなるものでもありません。
人間の致し方のない業とでもいうべきものでしょうか。
円覚寺では、来月に大きな法要を催す予定であります。
前管長の足立大進老師の三回忌と併せて、円覚寺第二百十世住持、円覚寺派第三代管長宮路宗海老師百年諱と、第二百十一世住持、第四代管長広田天真老師百年諱の大法要を勤める予定なのであります。
とりわけ足立老師の法要は、コロナ禍にあって、これまで十分な法要が出来ていなかったので、この機にお勤めさせてもらおうと思っています。
そのほかの二人の老師のことは、あまり世に知られていないと思います。
明治以降の円覚寺では、なんといっても今北洪川老師と釈宗演老師のお二方が高名であり、そのあと古川尭道老師がいらっしゃって、そして朝比奈宗源老師になると思われていることが多いのです。
住持というのは、円覚寺の開山以来の世代のことで、私が二百十八世であります。
管長というのは、明治以降に定められた制度によるものです。
初代管長が、今北洪川老師、二代目が釈宗演老師、三代目が宮路宗海老師、四代目が広田天真老師、五代目が釈宗演老師の再任、六代目が古川尭道老師、七代目が太田晦巌老師、八代目が尭道老師の再任、九代目が棲梧宝嶽老師、十代目が朝比奈宗源老師、十一代目が松尾太年老師、十二代目が足立大進老師、そして私が十三代なのであります。
宮路宗海老師と、広田天真老師のことはあまり知られていないので、簡単な冊子をつくって紹介しようと準備しています。
毎日新聞の「余録」を読んで、ふと宮路宗海老師のことを思ったのでした。
それは釈宗演老師との間柄についてであります。
宗海老師は、安政三年(一八五六)、三河国の生まれです。
宗演老師よりは三歳の年長であります。
豊橋のお寺で出家して、明治十二年(一八七九)二十三歳の時に円覚寺に掛錫し洪川老師について参禅します。
宗演老師は、宗海老師よりも年が若いのですが、明治十一年円覚寺にきて先に修行していました。
明治十九年には、宗海老師は円覚寺を出て、京都に行き、相国寺の独園老師について参禅します。
明治二十三年西尾の実相寺に入寺しますが、参禅の念やみがたく、独園老師に参じてついに修行をしあげられたのでした。
この宗海老師が円覚寺を去るにあたってのことであります。
宗演老師は、ずば抜けた天才肌の禅僧であって、明治十六年には二十四歳で修行を仕上げて洪川老師から印可を受けています。
十七年には宗演老師はすでに師家分上、宗海老師はいまだ僧堂の典座を勤めています。
『円覚寺史』には、井上禅定師が、宗海老師のことを、
「十八年春は又典座、秋は聖侍、垣根一つ隔てて佛日庵の若老師宗演は春陽をうけた馥郁と香る梅花に似たるに、正続の海ソは徹骨の寒苦を忍ばねばならぬ」と書かれているように、お二人の境遇は実に対照的であったのです。
宗演老師が明治十一年に円覚寺に来て、明治十六年には印可を受けるというのは、異例の速さでありましょう。
宗演老師が如何に俊敏であったか察するに余りあります。
洪川老師ですら、出家して本格的修行を始めてから、儀山老師から印可を受けるまでには十数年の歳月を要しています。
その間に調べてきた白隠下の公案を、宗演老師は数年で仕上げられたのでした。
ついに明治十九年春に、宗海老師は、
「一樹の春風両般有り、南枝は暖に向かい、北枝は寒」の句を典座寮の戸に残して円覚寺を去ったのでした。
禅語として用いられる言葉ですが、一本の樹に春の風があたっても同じ風を受けるわけではない、南の枝は暖かく、北の枝は寒いという意味であります。
同じ道場で同じように修行しながら、かたや洪川老師に大事にされて修行を完成して暖かい風に吹かれる身、こちらは北の枝のように寒いままの境遇だという意味をこめたものでありましょう。
妬みや憎しみがなかったとは言い難いものがあったことでしょう。
しかしながら『円覚寺史』に井上禅定師が「宗海もただ者ではなかった、遂に相国の老丹を服して鎌倉に帰り白雲に独自の禅風を挙揚したのである」と書かれている通りに、その後素晴らしい活躍をなされたのでした。
宗演老師のあと、宗海老師が円覚寺の僧堂師家を勤め、管長にもなられたのは、どのような事情があったのか、その詳細は不明であります。
しかしながら、このような人事は宗演老師の意志が無くてはできないことであります。
宗演老師が、ご自身の後の師家や管長を宗海老師に託されたのは、やはり宗演老師の雅量というべきでありましょう。
宗海老師のもとにも優れた人材が集まって、円覚寺の道場は大いに栄えたのでした。
後に総持寺の貫首にもなられた渡辺玄宗禅師も宗海老師のもとに参禅されているのであります。
また伊深の正眼寺の師家となられた小南惟精老師も宗海老師のところで修行されています。
奇しくも宗演老師は宗海老師よりもお若かったのですが、病の為に宗海老師より先に遷化されてしまいます。
宗演老師の密葬の導師を宗海老師がつとめられて法語を捧げています。
法語の最後に
渭北春天の樹、江東日暮の雲
の一句を手向けられたのも感慨深いものがあります。
この一句には、「一樹の春風」の句にこめられた複雑な思いはありません。
お互いにそれぞれの生涯を送ったのだという、静観した思いがくみ取れます。
妬みや憎しみがないとはいえなかったと察しますが、さすが禅僧のお二人は、そんな思いを乗り越えてそれぞれが見事なご生涯を全うされたのであります。
春風に吹かれる梅の花を見ながら、そんな二人の老師を思うのであります。
横田南嶺