不生ということ
私たちが見たり聞いたり感じたりしているものは、ヴァーチャルリアリティに過ぎないというのが、般若心経のものの見方であります。
『金剛経』には、
一切有為の法は、夢幻泡影の如く、
露の如く、亦電の如し、まさに是の如き観を作すべし
と説かれています。
一切のつくられたものはみな夢まぼろしのようなものだというのです。
五蘊によってつくられた映像に過ぎないのであります。
映画をたとえにしてみますと、スクリーンがあって、そこに映写機が様々な色の映像を映すのであります。
するとそこに本当に物があるように見えるのであります。
物語が展開しているように感じるのであります。
しかし、そこには実体がありません。
スクリーンに映写機が様々な色の画像を写しているだけなのです。
私たちが見たり聞いたり感じている世界は、五蘊によってつくり出された映像なのです。
五蘊には自我はないのであります。
五蘊は、たびたび説明していますが五つの集合要素であります。
「色受想行識」の五つです。
「色」とは、お互いのこの肉体のことです。
この体に眼耳鼻舌身の感覚器官が具わって、見たり聞いたりして感じるのが「受」であります。感受作用のことです。自分にとって心地よいか不快かを感じるのです。
次に、感じたものを好きだ、嫌いだと思うのが「想」であります。
喜びや怒りの想念である。
更に好きだと思うものには、もっと欲しいと思い、また嫌いだと思ったものには憎らしいと思ったり、攻撃しようとするのが、「行」であります。意志と訳したりもします。
そこで、これは自分にとって好ましいもの、不愉快なものと色分けをして認識するのが「識」なのであります。
真偽、善悪、美醜と判断し認識するのであります。
そして更に、般若心経では五蘊もまた空であると説きます。
映画のたとえでいえば、スクリーンに映し出されるのは、実体がないものだと見るだけでなく、スクリーンも映写機もみな空だというのであります。
そこには、空間があるのみです。
空間には、映像もなにもないのです。
なにも生じてはいないのです。
生じてはいないので無くなることもまたないのであります。
五蘊によって自我というものが仮に現れているように見えますが、それもまぼろし、更に五蘊という枠組みもすべて空じ去ってしまうと、ただ空間が広がっているのみであります。
シャボン玉は、洗剤と空気などで仮に現れたものです。
シャボン玉に実体がないということは理解しやすいものです。
もろくはかなく消えるものです。
そのシャボン玉もはじけてしまって、枠がなくなるのであります。
空の原義はふくらむということで、ふくらんで中が空になった状態であります。
なにも生じてはいないと気がついたのが盤珪禅師でありました。
ひたすら坐禅に励んで、とうとう病になってしまって、もう死ぬだけだと思ったときに、ふと一切は不生で調うと気がついたのでした。
それから一気に病気も回復していったのでした。
そのあとはひたすら不生の仏心を説いて回られたのでした。
不生というと栗生隆子さんのことを思います。
発酵生活研究家の栗生さんであります。
以前このYouTubeで対談したこともあります。
栗生さんは十四歳の時に歯の治療をして、アマルガムを入れたことが原因で体が不調になってゆきました。
その歯に入れたものが原因だとは分からなかったのです。
何を食べても下痢をするようになってしまいました。
下痢がひどくなっても、原因がわからないので、下痢止めを飲むしかありません。
その薬も飲むのが癖になり、だんだん効かなくなります。
効かなくなると、なお強い下痢止めを飲みます。
下痢止めに抗生物質が入っているので、腸の中のよい菌が全部死んでしまったのでした。
もう何を食べても消化できなくなり、二十歳過ぎた頃にはほぼ寝たきりになってしまったというのです。
でも原因がわからないから、治しようがないという絶望的状況です。
同じ世代の仲間たちは青春を謳歌しているのです。
しかし自分は寝たきりになって、ベッドとトイレの往復しかできないのでした。
そんな状況で最後に彼女が選んだのは死でした。
こんな苦しい思いをするくらいなら、死のうと思ったというのです。
実際に死のうと試みたらしいのですが、人間というのは、死のうかというどん底に至った時に、百八十度転換することがあるものです。
物の見方がガラッと変わったのでした。
何が変わったかというと、彼女の言葉によりますと、今まではこの体、この病気が嫌で憎くて、ここから逃れたいと、逃れることばかり考えていたけれども、自分はこの体で生きようと思ったというのです。
これが自分の体だと。それは確かに、周りの人から見れば、病人かもしれないが、今の自分の体はこのような状態であるだけだ。これが自分の体であり、人生だ。この体で自分の人生を生きていこうと思ったというのです。
人間というのは、心が転換すると体も変わるものです。
そしてまた、心がよい方向へ向かっていくと、これもまた不思議で、よいご縁に恵まれるのです。
不思議とよい人との出会いがあって、彼女は発酵食品に出会うのです。
納豆やお味噌や甘酒です。
よい発酵食品を食べると、体のよい変化を感じたのでした。
そこで彼女はなんとか少しでもよい方向へ生きていきたいと思って、体が喜びを感じるような、そんなよい菌を取り入れようと、発酵食品を食べ続けました。
すると、だんだんと食べたものを消化できるようになり、起き上がれるようになり、普通の日常生活に少しずつ、戻れるようになったのでした。
そして、ある方から「病気の原因、それは歯ではないですか」と言われました。
それで、歯医者さんへ行って二十年前に入れたアマルガムを取り除いてもらいました。
その瞬間に、全ての苦しみが消えたといいます。
その時に、栗生さんが言った言葉が胸を打ちました。
「自分は、十四歳のときに歯医者さんの治療台で水銀を入れられて、苦しみが始まった。今、同じように歯医者さんの診察台の上でアマルガムを取り除いてもらって、苦しみが終わった。自分は二十年、この診察台の上で夢を見ていたのだと思ったのです」。
そしてそれを一言でいうと「不生」だとおっしゃったのです。
なにも生じてはいないというのです。
普通であれば、憎しみを感じるでしょう。
あの歯医者のためこんな目にあったとか、自分の失われた青春を返せとか。
でもそんな憎しみや妬みで生きたとしても、幸せになれません。
栗生さんは「自分の心の中で、憎しみや、怒りや、妬みの心を起こしたならば、それが一番、自分の体に悪いのだと思ったのです。
ですから、誰も恨みはしません。
一場の夢を見ていたのです。なにも生じてはいなかった、不生だと。
そして発酵食品のおかげで健康を取り戻すことができた。だから、少しでも多くの人たちに、よい発酵食品の作り方を伝えたいと思うのです」
といって、今そういった活動をしておられるのです。
盤珪禅師も栗生さんも、もう死ぬしかないというところまで追い詰められて、不生に気がつきました。
不生という、何も生じてはいないという空の世界は、大きな安らぎであり、新たな生きる力になるのであります。
横田南嶺