「空」はむなしいか?
「見たり聞いたりが脳のはたらきのとき、見られたもの、聞かれたものは、脳によってつくり出されたものと考えられます。
そうすると、すべての経験は、ただ脳の作用のみで、すべての経験世界は、実は映像的世界、ヴァーチャル・リアリティなのだということになります。
実はそこに本当の存在はない、本体なるものはないということになるでしょう。」
と説いてくださっています。
この言葉は以前にも紹介しました。
すべては五蘊によって作り出されたものであります。
五蘊は、たびたび説明していますが五つの集合要素であります。
「色受想行識」の五つです。
「色」とは、お互いのこの肉体のことです。
この体に眼耳鼻舌身の感覚器官が具わって、見たり聞いたりして感じるのが「受」であります。感受作用のことです。自分にとって心地よいか不快かを感じるのです。
次に、感じたものを好きだ、嫌いだと思うのが「想」であります。
心地よければ好きになりますし、心地よくないと嫌いだと思うのです。
喜びや怒りの想念である。
更に好きだと思うものには、もっと欲しいと思い、また嫌いだと思ったものには憎らしいと思ったり、攻撃しようとするのが、「行」であります。意志と訳したりもします。
そこで、これは自分にとって好ましいもの、不愉快なものと色分けをして認識するのが「識」なのであります。
真偽、善悪、美醜と判断し認識するのであります。
卑近な例で、男性が女性にあう場合を考えます。
お互いのこの目や耳の具わる身体が色です。
その目や耳で女性の姿を見て、その言葉を聞いて美しい、すばらしいと感じます。これが受です。
美しい姿を見、声を聞いて好きだと思うのが想です。
好きになると、また会いたいと思うのが行です。
そして、その女性のことを自分の彼女であると認識するようになるのです。
やがて結婚すれば、自分の妻と認識をするのであります。
自分にとっては素晴らしい妻と認識していても、姑さんにとっては必ずしもそうではないことがあります。
嫁のやっていることを目にしたり、嫁の言葉を耳にして不愉快に思います。
不愉快に思うと嫌いになってしまいます。
嫌いになれば、文句を言いたくなります。意地悪をするかもしれません。
そうしますと、嫁も姑を快く思わないものです。
お互いに仲が悪くなって、姑にとっては、どうしようもない嫁だという認識を作ってしまいます。
同じ一人の女性でありますが、旦那が見ているのと、姑が見ているのは別人物のようにも思われるのであります。
それは、それぞれの五蘊によって認識された映像を見ているだけなのです。
五蘊によって作りだされたものは空なのです。
実在ではない、実体はないのです。
こういう考えは、なかなか受け入れにくいものかもしれません。
龍樹は空について、因縁生であり、無自性であるという説をとりました。
すべてはさまざまな原因と条件とが合わさって仮に現れたものにすぎません。
そこに不変な実体は存在しません。
条件によって現れて消えるだけで、実体はないということを空だと表現したのでした。
こういう般若心経で説く空について、毎日修行僧達に説明しています。
説明していて、先日この空であるという説を聞くと、どう感じるのか質問してみました。
あるものは、頭では理解できても、この現実に暮らしている世界が空であるとは受け入れ難いといいます。
率直な感想であります。
竹村先生の仰せのようにヴァーチャル・リアリティだと言われても受け入れられないでしょう。
なかには、解放された感じがする、ホッとした感じがするという者もいました。
若い者でありますが、やはり若者なりにこの現実の世界で息苦しさ、生きづらさを感じているのかもしれません。
大病をして大きな手術を終えた方に聞いてみると、有り難い、おかげさまだという感想がありました。
空であるから、多くの方々のおかげ、医者や看護師や、医療を発達させてきた多くの方々のおかげで今あるのだと思うと有り難いというのです。
病人ということを喩えにして考えましょう。
病人というのは、いろんな条件によって、症状を発して病人と名付けれます。
しかし、それはいろんな条件によってそうなっただけではじめから病人であったわけでもありません、病人という不変の実体があるのではありません。
病人は空であるというのです。
空であるから、こんどは逆に条件を変えることによって、症状が無くなれば病人ではなくなります。
病人というものはまぼろしのように消えるのです。
空であるから治りもするのです。
病人という実体があって、変わることがないと治ることもないでしょう。
空であるからまた元気にもなれるのです。
多くのおかげで生かされるということなのです。
そこを有り難い、おかげさまと受け止めることもできるのです。
空ということは、今の現実が満たされた者にとってはむなしいように感じるかもしれません。
縛られた思いがしている者には、解放に感じます。
大切なものを失った者には、有り難いと感じるのであります。
空であるからこそ、おかげさまであり、有り難くもなるものです。
空は共生きであり、新生でもあります。
横田南嶺