禅僧の力
たしかにお釈迦様が葬式をなさっていたわけではないようであります。
特に日本では、死を穢れとして受け止める考えがありましたし、僧侶はもともと葬儀には関わっていませんでした。
今でも奈良の仏教では、あまり葬儀を行っていないと思います。
学問をして、修行するのが僧侶の務めでありました。
そんななか、禅宗の僧侶が葬儀に関わり始めたのだといわれています。
末木文美士先生の『仏典をよむ 死からはじまる仏教史』(角川ソフィア文庫)を読んでいても、「今日の仏教式の葬式の原型は禅宗によって確立されたといわれている」と書かれています。
なぜなのか、いろんな理由があろうかと思いますが、ひとつには禅宗は、穢れなどへのこだわりがなかったということがあるでしょう。
それからあまり型にとらわれないという特徴もあろうかと思います。
そのほかにも諸々の理由があったのでしょうが、葬儀や死者の供養に禅宗の僧侶が関わるようになったのでした。
そして、またなぜ禅宗の僧侶が死者の供養に関わるのかということについて、ある学者に聞いたところ、禅僧には特に力があると信仰されていたからだと言われたことがありました。
死者の魂を導いてゆくような力があるということなのでしょうか。
そう聞いて不思議に思ったのでした。
別段私たちは、なにも特別な力を身につけようとして修行しているわけではありません。
修行というのは、ただ馬鹿になれと言われて、馬鹿になる修行をしているのみなのです。
坐禅して無になろうと努力しているのであります。
なにも特別に死者の魂を導く力を身につけようとしているのではないのです。
そう言われて考えてみると、禅僧も雨乞いの祈祷などをしていたことが、語録などからも分かります。
これもまた雨を降らす修行をしているわけではありません。
私などは、雨乞いを頼まれて雨が降るとしたら、ちょうど雨が降る時にあたったからだろうとしか思わないのであります。
こういう不思議なことはあるものです。
例えば『般若心経』という経典は「空」であることを説いた教典であります。
すべては五蘊という五つの集合要素によってできているのであって、自己に実体がなく、とらわれるものはなにもないという教えなのです。
そんな「空」を説いた教典が、大きな力があると信仰されてきました。
『般若心経』という経典が、災いや魔を降伏させる力あると信じられたのであります。
おなじく空思想を説いている『金剛般若経』もまた、優れた力があると信仰されてきました。
災いを除く力があると信仰されたのであります。
空であることを説きながら、同時に特別な力があるという信仰になっているのであります。
そんなわけで、今でも般若心経などのお経がお守りになったりしています。
観音経のような観音様の救いを説いた教典ならば、まだお守りになるのも理解できますが、空を説いた教典がお守りになるといったり、お経を写して御利益があるというのは考えると不思議なのです。
この不思議なことは、般若経典の初め頃からあるのです。
坐禅して無になる修行をしている禅僧に不思議な力がある信仰されるのと似たように思うのであります。
来月円覚寺では、宮路宗海老師と広田天真老師の百年忌と、前管長足立大進老師の三回忌を行う予定であります。
その広田天真老師のことを調べていると、鈴木大拙先生とのご縁があることが分かります。
大拙先生が『今北洪川』という本の中で、はじめて円覚寺に来て今北洪川老師に会った時のことを記述されています。
引用しますと、
「著者が老師にお目にかかったのは、確かに老師示寂の前年であった。自分は二十を越えたばかりの書生であったのみならず、世間のことなどについては全くの無経験者であったので、円覚寺の居士寮に落ちついたときなどは、妙な心持であった。
老師に相見するといって、知客寮の広田天真師に伴われ、十銭の相見香料というようなものを包んで、三応寮に行った。
この天真師というのは、後に円覚寺の管長にも東福寺のにもなられた人であるが、知客寮でお目にかかったとき、雲水坊さんというものはこんなものかと思わせられた。ちょっと達磨さんを想像されるような顔つきやら態度であった。
何年かの間、禅堂生活で鍛え上げると、あんな風に一人前の禅坊さんが出来るのであろう。薫習の力は二、三年では浸透しない。どうしても六、七年はかかるであろう。意識することなくして、自らに四囲の空気を吸い込むところに教育の効力があるのである。
二年や三年で間に合わせようとしても、だめだ。それではいかもの以上には出ない、鍍金はすぐはげる。禅堂教育というものを考える上においても、この無意識の薫染に意を注がなければいけない。
さてこの達磨さんを偲ばせる天真師に伴われて隠寮に出かけた。」
という一節であります。
天真老師という方の修行時代の風貌がうかがわれるのであります。
禅堂の修行はなにも雨を降らすような特別な技倆を身につけるものでもなく、死者を導く修法を習うわけでもなく、ただ無心に畑を耕し、ご飯を炊いて、無になって坐るだけなのです。
しかし、そんな修行を何年も重ねていると、大拙先生が「薫習」と表現されたように、香りが染みつくように何か人格が形成されていくのかもしれません。
その薫習を二年や三年で間に合わせようとしても駄目だというのは、興味深いものです。
今や三年の修行でも長いと言われています。
大拙先生が「どうしても六七年はかかる」という根拠が何か分かりませんが、人間の体の細胞は七年くらいでほとんど入れ替わると聞いたことがありますので、それくらいの年数僧堂にいれば、僧堂で修行している細胞にほぼすべて入れ替わるからかもしれないと思ったりします。
もっとも特別な力をつけようとあてにすることも、特別な力があるように思うことも大きな間違いを犯してしまいます。
やはり馬鹿になって修行するのみであります。
横田南嶺