無我ということ
無我という言葉は日常でも使われます。
どういう意味で使っているか、『広辞苑』で参照してみます。
「無我」を調べてみると、
①我意のないこと。無心なこと。私心のないこと。「無我の愛」
②我を忘れてすること。「無我の境」「無我夢中」
③〔仏〕我の存在を否定すること。
無常・苦と共に仏教の根本思想の一つ。
我は人間存在や事物の根底にある永遠不変の実体的存在(アートマン)。「諸法無我」
という説明があります。
そこから、「無我愛」という言葉があって、「自我を離れた真の愛。没我の愛。」を意味します。
更によく使われるのが「無我夢中」であり、これは、「我を忘れるほど、ある物事に熱中すること。」なのであり、「無我夢中で働く」として使われています。
仏教で説く無我は、『広辞苑』にある三番目の意味であり、「我の存在を否定すること」であり、「我は人間存在や事物の根底にある永遠不変の実体的存在(アートマン)」をいうのであります。
「諸法無我」として使われることが多いので、こちらも『広辞苑』で調べますと、「三法印の一つで、いかなる存在も、永遠不変の実体を有しないということ。」という解説があります。
では「三法印」とは何かを調べると、
「三法印」、「仏教教理を特徴づける三つの根本的教説。諸行無常・諸法無我・涅槃寂静をいい、一切皆苦を加えて四法印とする」という解説があります。
創られたものはうつろいゆく
この世にあるものひとりあらず
己なき者にやすらいあり
と訳されたりしています。
岩波書店の『仏教辞典』でもう少し詳しくみてゆきましょう。
三法印は
「仏教教理の特徴をあらわす三つのしるし」であります。
「あらゆる現象は変化してやまない」という諸行無常。
「いかなる存在も不変の本質を有しない」という諸法無我。
「迷妄の消えた悟りの境地は静かな安らぎである」という涅槃寂静、の三つであります。
これに一切皆苦を加えると「四法印」となります。
まず「無常」とはどういうことか、『仏教辞典』には、
「常(つね)でないこと、永続性をもたないこと。」であり、
「常住(じょうじゅう)の対」なのです。
『仏教辞典』には、「苦、無我とならんで、仏教の伝統的な現実認識を示す」と説かれています。
「ひとの生存をふくめ、この世でわれわれが目にするすべては移ろいゆくものであり、一瞬たりとも留まることがないということ」なのです。
「この無常説は後に、すべての存在するものは刹那に滅するものであるという刹那滅論を生むことになる。」とも説かれています。
刹那滅というのは一刹那のみ存在して滅するのだという意味です。
刹那も仏教の説く時間のことで、「きわめて短い時間。瞬間。最も短い時間の単位」なのです。
その長さについては、「指を一回弾くあいだに六十五刹那あるという説や、七十五分の一秒に相当するとする説など」があります。
極めて短い間に生じて滅するのです。そしてその繰り返しなのです。
仏教では「一切の形成されたものは無常であり、それゆえ苦であり、それゆえそれらは我ではありえない、すなわち無我(非我)である」と説きます。
「そのうえで、涅槃(ねはん)こそは静寂(涅槃寂静)で、真楽であることを強調する」のであります。
無我について更に詳しく考察してまいりましょう。
「諸法無我」を『仏教辞典』で調べますと、
「<諸法>とは、われわれの認識の対象となるあらゆる存在」であります。
「我(アートマン)とは、ある存在をそのものたらしめている永遠不変の本質を意味する」と説かれていて、「無我」とは、いかなる存在も不変の本質を有しないことなのであります。
「すべてのものは、直接的・間接的にさまざまな原因(因縁)が働くことによってはじめて生じるのであり、それらの原因が失われれば直ちに滅し、そこにはなんら実体的なものがないということ」を説いているのです。
そうしますと「われわれの自己として認識されるものもまた、実体のないものでしかなく、自己に対する執着(しゅうじゃく)はむなしく、誤れるものとされるのである。」
ということになって、自我の執着から解放されるのであります。
「我」がないという「我」とは、『仏教辞典』では、
もとは「アートマン」といって「もと気息、呼吸の息を意味し、生気・本体・霊魂・自我などを表す」ものです。
インドの諸哲学が個人をさらに掘り下げて、常住・単一・主宰のアートマン(我)を最重視し、それをめぐって展開するのに対して、仏教はそのような<我>は否定し、我・自我そのものを諸要素の集合と扱う」
と解説されています。
「我」というのは、「常、一、主宰」という性質のものです。
常に変わらないのであり、それのみ単一で成り立つものであり、主宰となってほかからの影響を受けないものなのです。
常に変わることのないものがあって欲しいと思うのは世の常であります。
インドにはカースト制度がありました。
これは不変なるものを認めているのであります。
変わらぬ実体があって、いつもバラモンはバラモンなのでしょう。
しかし虐げられた立場からは、変わらないというのは困ります。
お釈迦様の教えは、このようなカースト制度に苦しめられる人の解放を説いたものだと察します。
変わらないものはないというのです。
お釈迦様の説かれた「無我説は、我執を含むあらゆる執着からの解放を強調した」ものなのであります。
自分という実体はないというのです。
それらは五つの構成要素の集まりに過ぎないのです。
たとえでわかりやすいのが炎であります。
炎には実体がありません。
これが炎だという固定したものがあるわけではないのです。
ゆらゆらと常に変化し続けています。
燃焼の三要素というのを、科学で習ったものです。
燃焼に必要なのは三つの要素です。
可燃物、酸素供給体、点火源の三つです。
例えばろうそくという可燃物があり、空気中に酸素があり、点火源としてマッチがあるのです。
その三つの条件がととのって火がつきます。
火には実体がないのです。三つの条件がそろってかりに現れているものに過ぎないのです。
自我も同じなのです。
五蘊という五つの条件がととのって、かりにあるように見えているに過ぎないというのです。
五蘊は色受想行識であって、いろ・かたちある物質的なもの(色)、感受作用(受)、表象ないしイメージ(想)、潜勢的で能動的な形成力(行)、認識作用(識)の五つの集まりです。
条件によって生じることを因縁によって生じるといって、「因縁生」といいます。
因縁によって生じるので、そこに実体がないというのが「無自性」というのです。
「因縁生」であり「無自性」であることが「空」であると説いたのが龍樹なのであります。
無我は「無自性」であり「空」につながっているのであります。
実体がないというと、寂しいむなしいようにも感じられますが、限定されないのですから、そこに無限の可能性が出てくるのです。
カーストにとらわれることなく、各自が自らの行いによって、自分を変えてゆくこともできるのであります。
また今自分は駄目だと思いこんでいたとしても、条件を変えれば、また新たな可能性が出てくると考えることもできるのであります。
無我説は大きな力にもなってゆくのです。
横田南嶺