「行」とは何か
以前にも紹介した通り、お二人の掛け合いが楽しくすばらしく、聞いているだけで、ホッとした気持ちになれるものであります。
心がほどける感じがするのであります。
般若心経を丁寧にお二人で解説してくださっています。
このお二人に感化されて、私も最近修行僧たちに般若心経の講義を毎日始めているのであります。
学生時代に般若経を研究していた、かすかな記憶をもとにして、錆び付いた頭でどうにかこうにか講義をしているところです。
五蘊皆空ということだけで、何時間も講義を続けているところであります。
すべては五蘊であり、五蘊以外の何ものも存在しないという教えは、ともすれば、外界は非実在で心が外界を生み出すという哲学的な観念論と同一視されることがあります。
しかし、仏教は観念論ではなく、あくまでも苦しみからの解放を目指した実践行なのであります。
般若波羅蜜多という智慧の完成は、どこまでも行なのであります。
そこで般若心経にも「深般若波羅蜜多を行じる時」と書かれているのです。
先日の第八回では、この「行」ということについて、細川さんと小池さんとが語り会っていました。
そのなかで小池さんが実に素晴らしいことを仰っています。
それを是非とも紹介したいと思って、筆録してみました。
細川さんがこの仏道を行じてゆく上において、何が大切かと問うたのに対して小池さんが、ゆっくりと慎重に言葉を選びながら語っているのであります。
「仏教の本質は何かというと、修行だと思う。
知識ではない、頭で考える知識などではなく、あくまでも修行がその本質だと思っている。
それで仏教の修行というのは何なのかというと、誠実に信じたものを勤め励むということがたぶん修行なのかと思っていて、誠実に勤め励んでいることに人生の価値を見いだすことだと思うのです。
なので、私は仏教の教えというのは、生きがいをなくした人に寄り添える教えなのだと思っていて、なぜならば生きることそのものを生きがいとしてとらえるような、まさにそれが我々の行なのではないかと思うのです。
やはり間違うこともあるし、失敗することもある、だけれども間違ったら素直にあやまって直してゆけばいい、回り道をしてもいいから今一瞬を誠実に自分のできるだけの力で精一杯に生ききるというのが、まさに修行なのかと思うのです。
ここで肝心なのは、修行することが偉いとはき違えてはいけないのではないかと思っていて、修行というのはあくまでも智慧を得る為の道筋手段なのです。
智慧を得るためなので、修行イコール偉いって、我々仏教の修行者はつい勘違いしてしまう瞬間があるのではないかと思う。
辛いしんどい修行を耐えているときに、それがすごいことなんだと自分に酔ってしまう時があると思うのです。ほんとうにそう思います。」
という言葉です。
仏教を自分自身の生きる道として、真摯にその道を求めている小池さんの言葉が素晴らしいのであります。
ご自身の言葉としてしっかり語ってくれています。
「仏教の本質は修行」、まさしくその通りなのです。
ただ単にすべては心の表れだといって頭が考えるものではないのであります。
そしてその修行というのは、「誠実に信じたものを勤め励むこと」だというのも小池さんならでは言葉であります。
「生きることそのものを生きがいとしてとらえる、まさにそれが行」とは、素晴らしい言葉であります。
小池さんのYouTube動画では、須磨寺散歩といって、須磨寺の商店街のお店を訪ねるのがあります。
これもいつも楽しみに拝見しているのですが、食堂や喫茶店や仏具屋やいろんなお店の方が、誠実に精一杯に生きておられる姿は仏道を実践しているのと変わらないのだという思いで取材されている様子が、小池さんのお姿からくみ取れるのであります。
「間違ったら、素直にあやまって直してゆけばいい」という言葉は、私たちが月に二回実践している布薩の心そのものであり、それはお互いの人生を生きる姿勢なのであります。
それから更に私たち仏教を学ぶ者が陥りやすい修行の欠点についても言及してくださっています。
それが「修行することが偉いとはき違えてしまうこと」なのです。
あくまでも智慧を得るためだと仰ってくれています。
その智慧とは、般若心経では五蘊は空だとあきらかに見る智慧であります。
自我は空だとあきらかに見ることによって、苦しみから解放される教えなのであります。
それがあろうことか、修行することによって、この自我を増大させてしまうことがあるのです。
「自分はこんなに修行したんだ」という思いや、「修行していないものはたいしたことはない」という思いを作ってしまいます。
その修行にもレベルをつけてしまって差別してしまうこともあります。
しかもやっかいなことに、厳しい修行をすればするほど、厳しい修行に耐えているという自分に酔ってしまうことがあるという指摘はまさにその通りなのです。
禅宗は修行が厳しいとか、臨済宗では修行期間が長いと言われるのですが、この点は気をつけないといけません。
『修行と信仰 変わるからだ 変わるこころ』(岩波現代全書)という本に、藤田庄市さんがあとがきで書かれています。
「修行は危険である。
さまざまな面において。
「修行はすればするほど、悟りから遠くなります」
今は亡きある比叡山千日回峰行者の、決然とした口調が忘れられない。
「行はしている時だけが、すべてです」
かつてそう告げた修行者がいた。
修行は人間の身心を危険にさらす。
修行は人間を思索から遠ざける。
修行は人間を傲慢にする。(修行否定の宗教はその理屈を編み出すなかで、表面とは裏腹に人間をいっそう傲慢にする)」
という言葉です。
細川さんが小池さんとの対談でも、修行というのはどこまでも現在進行形だと指摘された通りなのです。
「深般若波羅蜜多を行じる時」を、般若心経のサンスクリット本から直訳すると、「智慧の完成において行を行じつつあったそのときに」というのです。
どこまでも「行を行じつつ」あることが仏教の本質であり、般若心経の要なのであります。
横田南嶺