人のやさしさ
興味深く思いましたので拝読しました。
なんでも滝沢馬琴の「兎園小説余録」という書物に、「感冒流行」ということが書かれているそうなのです。
文正三年(1820)の秋九月(旧暦)より十月まで世上一同に感冒が大流行したようなのです。
一家十人いれば十人みな感染を免れなかったそうです。
軽いのは四五日で本復、大方は服用しなかったといいます。
重いのは傷寒といって高熱疾患を起こして、悪寒と発熱がひどかったとか。
うわごとをいう者もあったけれども、それも病臥十五六日で平癒したのでした。
この風邪で病死した者はないそうです。
江戸は九月下旬より流行して十月が盛り、京、大坂、伊勢、長崎などでは九月が盛りだったとか。
この流行の感冒は、中以下の男女が多く、服薬しなくても治ったというのであります。
磯田先生は、この風邪で病死した者はいないというのは誇張だろうと指摘されています。
一家十人いればみんなが罹るほどの猛烈な感染力だったけれども、その割に軽傷者が多かったし、馬琴のまわりには死者はいなかったと解釈したいと磯田先生の説であります。
中以下の男女というのは、中年以下の若年層に感染が多かったとも読めると書かれていました。
こういう不思議な風邪が、二百年ほど前に、西日本から東日本へと一ヶ月で広がっていたということです。
このたびの感染症も、新型コロナウイルスと名付け、デルタ株だのオミクロン株だの、まるで未知のウイルスが襲ってきたように思うと、恐ろしいものですが、過去にも流行した感冒だと思えば、何かホッとするような気もします。
江戸時代に流行したのも今の技術で調べれば何らかのウイルスであったかもしれません。
逆に今の感染症も、なんの技術も無ければ、変わった感冒がはやったということになるのかもしれません。
もっとも決して科学の進歩、医療の発展を否定するわけではありません。
現代の科学によって、ウイルスの正体などがはっきりして対策を講じることは素晴らしいことであり、私たちはその恩恵を受けています。
感謝しています。
それでも、やはり未知のウイルスだと言われるよりも、こうして過去にも似たことがあって、それを人類は克服してきたのだと思うと、心が少し軽くなるものです。
さて、この新型コロナウイルスも長引いていて、もうただの風邪だという方もいれば、まだやはり慎重にしなければという方もいて、これも新たな分断が生まれているのかと思います。
二月七日の日本講演新聞の社説に、水谷もりひとさんが書かれていました。
水谷さんが講演をなさって、コロナのことには触れなかったらしいのですが、すると聴講した方から、コロナについて触れなかったがどう思うのかと聞かれたというのです。
水谷さんは、「コロナに関して言うと、どのメディアも連日トップニュースで報じるので、その情報は全国民に行き届いている。いのちに関わる情報だからだろうか?」と書かれています。
しかし水谷さんは、
「だとするなら、年間約98万人が罹患し、約37万人が亡くなる「がん」という病気に対して、コロナ並みの報道がなされていけば、今後、その患者数を激減させることができるのではないだろうか。
国立がん研究センターの発表によると、一生のうち日本人ががんと診断される確率は男女ともに2人に1人だそうで、そのうち男性の約50%、女性の約28%が生活習慣が原因なのだそうだ。」
と、コロナばかりでなく、がんで亡くなる方の数の多さを取り上げています。
たしかにそれほどまでにがんで亡くなる方がいながら、毎日死者数が報道されることはありません。
このことをコロナのように報道するとどうなるかというと、水谷さんは、
「「コロナ並み」とは、毎朝トップニュースで前日に新たにがんと診断された患者数と、がんで亡くなった人の数を報じる。そして、がんは生活習慣の改善でかなりの数、予防できる病気であることを何度も何度も繰り返し報道するということである。」
と指摘して、何度も繰り返し報道されると、マスクの着用などがあたりまえになったのでした。
同じように「栄養バランスの取れた食生活や、できるだけストレスのない環境づくり、適度な運動」などが大切だというのです。
たしかに毎日コロナの報道がなされていると、日本でほとんどの方がマスクをつけて暮らしています。
私のような者でも、手洗いうがいを励行しているのであります。
しかしながら、コロナにしても、がんにしても、どのような原因があろうとも、人間誰しも避けられないのは、死ぬということであります。
様樣に浮世の品は變れども死ぬる一つは變らざりけり。
という和歌の通りであります。
コロナの流行によって、改めて人は死ぬものであり、それは誰にも訪れることであり、いつ死が訪れるか分からないということを、知らされたのでありました。
それから、人は死にたくないという気持ちを持っていますものの、それと共に周りに迷惑をかけないようにという思いも持っています。
人は死ぬものだから、コロナを特別視しないという考えもひとつでありますが、コロナの感染に慎重になっている方の多くは、人に迷惑をかけないようにというやさしい気持ちだと感じます。
高齢の方の話を聞いても、自分が罹ってしまうのは仕方ないけれども家族に迷惑をかけたくない、子供が会社に行けなくなると困るという声をよく聞くのであります。
高齢の方だけではありません。
PHPの三月号に「ひとりで黙食を」という高校生の作文がありました。
夏休み明けにコロナ禍にうんざりした友人が、一緒にご飯を食べようと誘ってくれたのだそうです。
久しぶりの友人との食事をうれしいと思ったものの、いつものようにひとりで黙々と昼食をとったというのです。
その高校生の方は、曾祖母を新型コロナウイルスで亡くされています。
その方は「曾祖母の死も、叔父の感染も、家族の苦しみも、ニュースになることはなかった。でも毎日報じられる感染者数の向こうにはその何倍もの数の、嘆き悲しむ人たちがいる」と書かれているのであります。
「私のように、祖父母と暮らしている友人もいるだろう、持病のある家族と暮らしている友人もいるだろう、誰もが誰かの大切な命を奪ってしまうリスクがある。」というのであります。
そして更に、
「最近気づいたんだ。今、この瞬間にも、私たちの生活をどこかで支えている人がいるということに。
信号も、水道も、インターネットも、安定しているのは、どこかで誰かが最後の砦として闘っているからだろう。」というのです。
そこで、この高校生の方は、
「だから、私も。今日もひとり、すみっこで弁当を開く。
どこかの誰かがひとりでも、感染から救われますように」
と文章を終えています。
人は死ぬものだから恐れることはないというのも一理ありますし、過去の感冒と思えば気も軽くなりますが、やはりこうして死を見つめながら、まわりの人を思いやるやさしさは、人間の素晴らしい宝だと思うのであります。
横田南嶺