どれが自分なのか
『衆経雑譬喩』という経典にある話だそうです。
『生きる力になる禅語』(致知出版社刊)に掲載されていますので、引用します。
奇妙な話であります。
「旅人がある空家に泊まっていると、夜中に鬼が死体を担いでやってきて、それを食べようとするんです。
そうしたらもう一匹の鬼がやってきて、「それは俺のだ」と言って死体を奪い合っている。
そうこうしているうちに陰に隠れている旅人を見つけるんです。
鬼たちは旅人に、「この遺体はどっちのものかお前が決めてくれ」と言いました。
そこで「最初に担いできた鬼のものだと思います」と言うと、後から入ってきた鬼が怒って旅人の腕をもぎ取ってしまいました。
そうしたら、最初に入ってきた鬼が「かわいそうじゃないか」と言って、死体の腕をもぎ取って旅人に付けるわけです。
それを見て怒った二匹目の鬼が、今度は旅人の足をもぎ取りました。
すると、もう一匹の鬼はまた死体の足をもぎ取って旅人に付けました。
そうやってどんどん繰り返しているうちに、死体と旅人が完全に入れ替わってしまうわけです。
死体になった旅人が呆然自失として歩いていると、あるお寺に着きました。
そこのお寺にいたお坊さんに旅人は「一体私は誰なんでしょうか。一体どうしたらいいんでしょうか」と尋ねました。
するとお坊さんは「お前はそもそも誰でもないじゃないか」と言いました。
それで旅人はポーンと悟ったという。本来誰でもないんだというわけですね。」
というものです。
自分、自分と言って、自分があるように思っていますが、いったいどれが自分なのかというと迷うものです。
手足も皆自分だと思っていますが、もしも万が一に事故に遭って手を切断しても、切り離された手は、もう自分ではないと思いますし、残りの体は自分だと思うものです。
足にしても同じであります。
この仏典の話は、今の時代には古い話で済まされなくて、体の臓器なども皆入れ替えることなども、可能になりつつあるのです。
名前をつけて私と思っているものは何なのか。
手足を入れ替えるというような大きなことをしなくても、そもそも体の細胞は絶えず入れ替わっているのです。
何年も経てば細胞はほとんど入れ替わるそうです。
何十年も経てばすっかり見違えるようになるものです。
それでも同じ自分だと思っています。
いったい何に名前をつけて、同じ自分だと思うのでしょうか。
『葦かびの萌えいずるごとく』のなかで、和田重正先生は、
「こうして考えると名前とは、肉体や心以外のなにか変わらないものがあって、それにつけられたのではないかと思いたくなります。
自分と思っているものも、生まれたときから今日まで、変わらないなにかを指しているのではないかと考えたくなります。
この考えをもっと推しすすめて行くと、自分という肉体や心のもっと奥の方にある。なにか変わらぬものが、生まれる前からあり、死んだ後にもあると考えたくなります。」
というのです。
そうして、
「実際昔から多くの人々は、目に見えない自分の本体といったような塊を想像して」、霊魂などと呼んだのでした。
それを本体とか、実体とか言います。
そういうものがあると信じたいものです。
更に和田先生は、
「しかし、それとはまったく異った考えもあります。つまり、前の考えは「自分」という本体は変わらず、その表面の色や形が変化するというのですが、そうでなく「これが自分」というべきものはなにもない、本体もヘチマもなんにもなくて全部が一秒の休みもなく変わっている、そしてただ、自分と感じる仕組みがあるだけであり、その仕組みも一秒の休みもなく変化している、という考えもあります。」
と説かれています。
ここで和田先生が説かれている「自分と感じる仕組み」というのが、『般若心経』で説かれる五蘊なのであります。
五蘊は、色受想行識の五つであります。
色は、この肉体、そこに眼耳鼻舌身意の感覚器官が備わって、見たり聞いたして感じるのが受です。感じたものを好きだ、嫌いだと思うのが想です。
好きだ嫌いだと思ったものに、もっとほしいとか、嫌いなものを避けようとかして憎しみを起こしたりするのが行です。
そして、これは自分にとって好ましいもの、不愉快なものと色分けをして認識するのが識なのであります。
この五つの構成要素によって、自分というものを作り上げているのです。
『般若心経』に説かれているのは五つの構成要素です。
岩波書店の『般若心経 金剛般若経』には現代語訳が載っていて
「求道者にして聖なる観音は、深遠な智慧の完成を実践していたときに、存在するものには五つの構成要素があると見きわめた。
しかも、かれは、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見抜いたのであった。」
私たちが実在しているように思っているものは、この五つの構成要素に過ぎないというのです。
竹村牧男先生は、『般若心経を読みとく』のなかで、
「見たり聞いたりが脳のはたらきのとき、見られたもの、聞かれたものは、脳によってつくり出されたものと考えられます。
そうすると、すべての経験は、ただ脳の作用のみで、すべての経験世界は、実は映像的世界、ヴァーチャル・リアリティなのだということになります。
実はそこに本当の存在はない、本体なるものはないということになるでしょう。」
と説いてくださっています。
すべては空であり、実在ではない、実体はないという考えは、なかなか受け入れにくいものかもしれません。
特に現実の人生が思う通りになって、幸せを感じている人には、必要ないかもしれません。
しかし、仏教は、思うようにはならない人間の苦悩に答える教えであります。
すべては空性であるという教えは、現実の苦悩にまみれる者にとっては、大きな救いなのであります。
そして、自分なんてこんなものだと限定することがありませんので、更に大いに積極的にはたらいてゆくことも可能になるのです。
横田南嶺