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臨済宗大本山 円覚寺

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2022.02.09
今日の言葉

目を開いてみること

一切有為の法は、
夢幻泡影の如く、
露の如く亦電の如し、
まさに是の如きの観を作すべし

という『金剛経』の言葉があります。

すべてのものは夢や幻のようなもの、水面に浮かぶ泡のようなもの、影のようなものであり、露のようであり電のようなものだと、そのように観なさいという意味であります。

和田重正先生の『葦かびの萌えいずるごとく』という本には、雲をみることについて書かれています。

引用させていただきます。

「腹が立つとか、悔しいとかいう感情にとらわれたときどうしたら良いかと、私は少年のころからなん十年となく工夫してきました」と和田先生は書かれいます。

和田先生ご自身、

「私は比較的、感情を表面には現しませんが、内心では猛烈に荒れ狂う質なので、それだけに非常に苦しいのです。

だからなんとかして、この苦しみから逃れたいと思ってきたわけです。」というのであります。

そこでそのような感情から離れるにはどうしたらよいのかと、和田先生は、いろいろ工夫されてきた結果、

「それは雲を見ることです」というのです。

禅宗の修行ならば、呼吸を見つめるとか、呼吸を数えるという方法を用いるのでありますが、「雲を見ること」だと和田先生は仰っています。

和田先生は、

「ほんとうは雲にかぎらず海でも川でもいいでしょう。
ゆるやかに動き変化する自然物ならなんでもいいのだと思います。

しかし、荒れたり狂ったりした感情を自然に運びさってもらうのには水は変化が少し細かすぎますので、雲がいちばん適しているような気がします。」と指摘されているのです。

大ぞらを 静かに白き 雲はゆく 
しづかにわれも 生くべくありけり
        

とは相馬御風先生の和歌であります。

そんな気持ちで雲を眺めるのはよいことでありましょう。

心もそのように悠然と流れてゆけばいいのですが、和田先生のようなお方でも、

「ところが、私たちのように、「コンチキショウ」と思ったら最後「コンチキショウ」という自分の心の中の固まりばかり見つめてしまうので、いつまでたっても心の目には「コンチキショウ」が見えているのです。

まことに熱苦しい思いを長く続けるわけです。

だから、自分の心の中から目を放ってしまえばいいのですが、それが普通はなかなかできない技なのです。」

と仰せになっているように、心は何かにとらわれてしまいます。

それを無理に払いのけよう、無になろうとしても難しいものです。

そこで和田先生は、

「ところが、雲を見る。という動作は、たとえどんなに腹が立っていても、しようと思えばできます。

そして、あれを見ていさえすれば、自然にその雲の動きや変化に乗って、自分の心は運ばれていってしまいます。

ですから、雲を見さえすれば良いので、どんな気持ちで見ようとそれはいっこうにかまいません。

なんと思って見ようとそんなことには全然影響されません。」

というのであります。

そうして、雲を眺めるように、心を見ることができればよいのであります。

『法句経』に

この世の中は暗黒である。ここではっきりと(ことわりを)見分ける人は少ない。網から離れた鳥のように、天に至る人は少ない。

という言葉があります。

これは『法句経』の174 番にある言葉です。岩波文庫の『ブッダの真理のことば、感興のことば』にある中村元先生の訳であります。

「ここではっきりと(ことわりを)見分ける人は少ない。」というところを、友松円諦先生は「能く観るもの少なし」と訳されました。

みるということは難しいものです。

かつて天台宗の阿純章さんと月刊誌『致知』2018年7月号で対談させてもらった折に、阿さんが、

「はじめ塾という私塾を創始された和田重正さんの本に出てくる鳶職の方のお話です。

鳶職でも間違って木から落ちてしまうことがたまにあるそうなんですが、そんな時は自分から降りてしまうんだと。怖いと思って目を背けると怪我をするけれども、自分から降りて地面から目を離さないでいると、怪我が少なくてすむというんです。」

という話を聞いたことを思い出しました。

改めて『葦かびの萌えいずるごとく』を読んでみますと、その鳶職の話がありました。

和田先生が鳶職の方と話をしていて、その鳶職の仲間の方が、煙突に登って仕事をしていて、煙突が倒れてけがをしたというのです。

その時に鳶職の方が、仕事師だから助かったけれども素人だったら死んでいたというのです。

どうしてかと和田先生が尋ねると、

「素人は、しまった、と思った瞬間に目をつぶってしまうけど、私たちは決して目をつぶらない。

落ちながらでもちゃんと自分の手や足や頭の状態を意識していて、下にある石や材木などをどうよけたらいいか判断してるんです。

だいいち、落ちるなんて間抜けなことをするんじゃ仕事師とは言えませんよ。

あっと思ったら落ちるより先に自分から飛び降りるんです。

それができなけりゃ、命がいくつあったって足りゃしません」

と答えたというのでした。

この鳶職の方の話に、和田先生も「なるほど」と思ったというのです。

目を閉じればこの世は暗黒であります。

なにも見えません。

そこでやはり目を開いて見ることが大切なのであります。

今自分はどんな状態なのかを、冷静にみることができれば助かることができるのでしょう。

また和田先生は、この目をあけるということについて、

「「目をあいている」という心の状態は、下腹に気力が満ちているという体の状態とよほど深い関係があるらしいのです。

もしかするとイコールなのではないかとさえ思っています。

暗闇でいきなり犬に吠えられてドキンとして目をつぶったときには、きっと下腹が凹んで胃のあたりに力が入っています。

そういう時は脚も腰もこわばっているので、逃げ出すときに小さな石にもつまずいて膝小僧をすりむいたりします。

ところが度胸のいい人は「ワン」と来たとき「ペコン」とならずに、かえって「ウン」と力が入って犬の正体をじっと見定めるでしょう。

そういう人は、次の瞬間にどういう動きでもできるような弾力のある姿勢になっているから、犬に咬みつかれないし、石にもつまずかないでしょう。」

と説かれていて、目をあけることの大切さを説かれています。

坐禅の時には、目を開けて坐ることを大切にしています。

それは、眠らない為であるとか、妄想にとらわれないようにする為とか説かれているのですが、目をあけること、はっきり見ることで下腹に気が充実して、困難にも立ち向かう心が養われるのだと思いました。

今置かれている現状から目を背けずに、しっかり見る、自分はどんな状態にあるのかしっかり見ることができれば、きっと道が開けるのであります。

 
横田南嶺

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