いのちの色 – 和田重正『葦かびの萌えいずるごとく』に学ぶ –
そのなかに、
春雨のわけてそれとも降らねども受くる草木のおのがいろいろ。
という歌があります。
春の雨が、草花それぞれどんな色をつけようかなどとは考えずに降り注ぐのですが、春の草木は、それぞれの色の花を咲かせるのであります。
松原泰道先生が長く会長を務めておられた南無の会が編集した『南無手帳』というのがあって、私は今も大事にもっているのですが、そのなかに、
南無
花を咲かせ
鳥をさえずらせるいのちと
わたしたちが
生かされているいのちと
いのちに二つはない
ただ一つのいのちに手を合わせる
南無
という言葉があります。
花を咲かせるいのち、
鳥をさえずらせるいのち、
そして私を生かしているいのち、
これは何だろうかと考えます。
それは、個々別々のようで、個々別々ではなく、ただひとつのいのちだというのであります。
和田重正先生の『葦かびの萌えいずるごとく』(地湧社)という本に、こういうことが書かれています。
引用させていただきます。
「先進国の子どもはみんな型にはまった考え方や感じ方を強制されて、たいていの頭はかなり堅くなっています。」
というのでありますが、これは今の日本の学校教育においても通じる部分があるように思われます。
頭が堅くなるとどうなるのかというと、和田先生は、
「頭の堅くなったのはどうしてわかるかというと、なんでも“あたりまえ”に見えて少しもおもしろいものがなくなり、勉強のおもしろ味などはむろん真先になくなるのです。」
と書かれていて、なんでもあたりまえに見えるというのです。
有難うの反対語はあたりまえというのだと聞いたことがありますが、なんでもあたりまえに見えるということは、有り難いということが無くなるのであります。
「昔でも早い人は二十歳ぐらい、普通の人でも二十歳を過ぎると、頭がコチコチになって世の中に新鮮なものがなにもなくなる人が大勢いましたが、近ごろは世の中がひどく上ずっている上に教育がこの面では一層ひどく間違ってきているために、中学生ぐらいからそういう気の毒な状態になっている人がたくさんできて来ました。」
と和田先生は指摘されています。
そこで、「このコチコチになって、楽しみのない状態から、頭を解きほぐし、柔軟にする」ことが大切だと説かれているのです。
では、「頭が柔かくなったらどうなるのでしょう」と和田先生は説かれます。
「頭の中のこまごまとした仕切がとれて頭が広く働くのはもちろんですが、もっとありがたいことは、ものがよく見えてくることです。
頭のコチコチの人はあの柿の新芽を見て「柿の芽が出たなあ」「きれいだなあ」とボーッと見ています。
腹の底にはなんの感動も喜びもありません。
それは「柿の芽」という、その人の心の中に描かれているものを見ているだけで、ほんとうの実物は見ていないからなのです。
ところが頭が柔軟になると、なんの媒介(仲立ち)もなしに直接実物が見えてきます。
そして実物というものは、ひとまとめに「柿の芽」などという言葉で言えるような、味けないつまらないものではなく、一つひとつが無限の変化をもち、またそれらが無限の組み合わされ方をしているものです。
それが見えさえすればなにを見ても新鮮な驚きばかりです。
美しいともなつかしいとも言いようのない静かな感動に満たされます。
天地のあらゆるものに深い深い驚きを感じるようになるのです。
ですから格別な刺激がなくても、天地さえあればいつも新鮮な驚きに心を満たされて少しも退屈はしないのです。」
というのであります。
「柿の芽」という名前をつけてしまうことによって、絶え間なく変化し続ける“いのち”の営み、“いのち”の躍動が感じられなくなってしまうことがあります。
和田先生は、霜にあたって葉が枯れたすみれが春に花を咲かせるようすを次のように書かれています。
「立春の声を聞くと、目を覚ましたように底の方から色づいて来る。
なんという色か知らない。“いのち”の色だ。
この“いのち”はどこから、なにに伝わって来るのだろう。
そしてあの可愛い葉を出し、きれいな花を咲かせ実をならせ、奇術のような種播きをすませて、またどこかへ行ってしまう。
なんのために、そんなことを。
それより、“いのち”が、スミレに宿って、芽を出させ花を咲かせ、奇術を行わせるのだろうか。
それとも“いのち”がスミレの色や形となるのだろうか――。
スミレが“いのち”なんだろうか。
川底に息む数千尾の魚に“いのち”が宿っているのだろうか。 “いのち”が魚をつくっているのだろうか。
みんな“いのち“なんだろうか。
そんなことは考えなくても大学に入ることはできる。大学者になることも、大金持になることもできる。
だけども、こんなことを考えられるのは人間だけだ。虎や狼には“いのち”の不思議を思うことはできない。
“いのち”の不思議さがわからない彼等には、攻め合い、奪い合い、殺し合うより生きる道がないのだ。
人間だけがいのちの不思議さを知って、攻めず、奪わず、与え、与えられ、愛し愛されて生きることができるのだ。」
というのであります。
では、どうすればこのいのちの色を見ることができるのでしょうか。
和田先生の言葉を引用しますと、
「雲を、花をじっと見る。体中を目にして、ただ見る。雲の不思議に、花の魅力に、吸い込まれて行けば良い。」
というのです。
それは、
「科学的観察も、美の観賞もむろんいらない。一切の労作はやめて、ただ、ただ、雲を見、花を眺めさえすればいい」
というのであります。
「頭の運転を止めて、体を目玉にしさえすれば、すぐそこが“いのち”の世界だ。」
と和田先生は説かれます。
そうすれば、西田幾多郎先生が『善の研究』で説かれた、
「我々が花を愛するのは自分が花と一致するのである。月を愛するのは月に一致するのである。親が子となり子が親となりここに始めて親子の愛情が起こるのである。」という、愛が生まれてくるのでしょう。
これを慈悲ともいうのであります。
春の野に咲く花をみつめていのちの色を感じましょう。
横田南嶺