「加齢」「華麗」「遐齢」
円覚寺の幼稚園であります。
年に一度のことですが、園児たちと一緒に境内を走っています。
年に一度でもお役に立てれば何よりなのです。
その少し以前のことですが、珍しくトイレの流れがよくないということがありました。
詰まったというところまでではないものの、このまま放置すると詰まるかもしれないと思いました。
もう何年も前に、配水管に植物の根が入り込んで詰まったことがありますので、そんなことも頭によぎりました。
まずは詰まりを解消しなければと思って、あのトイレの詰まりを解消する道具を取りました。
トイレの片隅にずっと置いていたものであります。
詰まったのを、バッコン、バッコン言いながら解消してくれる道具です。
何回かやっていると、すっと解消しましたので、たいしたことにならずに済んでホッとしました。
トイレが詰まるというのも困るものです。
寺に出入りの水道屋さんを呼ばなければならないかと思ったのですが、助かりました。
一瞬ふと頭によぎったのは、知人のことであります。
例年正月に年始の挨拶にお越しくださる方がいます。
今年のお正月にお見えでなかったので、やはりコロナのことを気にかけて来られなかったのかと思っていました。
あとでうかがうと、正月早々にトイレが詰まって、水道屋さんを呼んで、年始どころではなかったのだというのでした。
トイレが詰まると一大事であります。
急いで頼んだ水道屋さんが円覚寺出入りの水道屋さんだったという話を聞いたのでした。
そんな話を聞いていたこともありましたので、うちも詰まったかと思ったのでした。
そこで、しみじみと何年に一度使うか使わないかという、あのトイレの詰まりをとる道具を見つめながら、感謝しました。
感謝してふと思ったのでした。
これはそもそも何という名の道具だろうかと。
修行僧たちに、あれはなんていう名なのか聞きましたが、皆分からないといいます。
ただ一人海外に長くいた経験のある者が、あれはたしか「プランジャー」と言いますと教えてくれました。
日本では、ラバーカップというのだそうです。
いつもはトイレの片隅においているだけで、少々ほこりをかぶっていました。
ふだん掃除の時には邪魔になるようなものです。
それでも何年に一度か大いに役に立つものです。
あれはほかの道具では役に立ちません。
またあのラバーカップも、その時にしか出番はたぶんないのだろうと思います。
しかしまた、これもなくてはならぬものだと思いました。
偉大なるかな、ラバーカップと思ったのでした。
道具でも毎日役に立つものもあれば、何年に一度役に立つものもあるのです。
人間も何年に一度でも役に立つことがあればそれでいいのかもと思いました。
何年に一度かということがあるのです。
昨年末に定期検診で、眼科の検査をするように言われていました。
先日ようやく眼科医に罹りました。
何年も前にお世話になった記憶があったので、診察券を探すと残っていました。
取っておいてよかったと思いました。
本当に何年に一度かというものです。
いろいろ調べてもらいましたが、急いで治療を必要とするほどではないらしいのですが、加齢による症状が出始めているとのことでありました。
なぜなったのかを聞いても、「加齢ですね」と言われます。
治療はまだ先でいいにしても、予防法はあるのですかと聞いても、「これは加齢ですから」というお医者さんのご返事でした。
という次第で、診察の間、何度も「加齢」という言葉を聞かされたものでした。
「加齢」「加齢」と言われるとあまりいい気がしないものです。
言われなくても「加齢」というのは齢を加えるのですから、減ることはないのです。
齢は加わる一方なのは真理なのです。
わかっていても、改めて「加齢」「加齢」と言われると気が滅入るものであります。
深刻な症状でなくてよかったのですが、「加齢」という言葉が重くつきまとう中を帰ってきました。
かれいを『広辞苑』で調べてみると、たくさんの言葉がある事を学びました。
まずは、おさかなのカレイであります。
次には、かれいといって、乾飯のことが書かれいます。
「旅行の時などに携帯する干した飯。転じて、広く携帯食料にもいう」というものです。
それから、問題の「加齢」ですが、この言葉の意味は、
「①新年または誕生日を迎えて年齢を増すこと。加年。
②年老いること。」
なのであります。
私どもも、年賀状を漢文で書く時には、自分自身のことを、「幸いに馬齢を加え候」と書くのであります。
新しい年を迎えて、年齢を増すのですから、悪い意味ではありません。
それが年老いることに使われて、「加齢臭」などいう用例にもなるのであります。
それから、華やかで美しいことの「華麗」というのもあります。
そうありたいものでありますが、私などはもはやいくらあがいても「華麗」とはほど遠いのが現実です。
それから「遐齢」という言葉もあります。
これは「長生き。長寿。」という意味で、「遐齢延年」という用例が出ています。
遐齢の遐という字は、遠い、はるかという意味です。
遐齢というように、できれば長寿、長生きをしたいとは思いますものの、せめてあのお手洗いのラバーカップのように、何年に一度かは、世間さま人さまのお役に立てるようになりたいものであります。
禅語に「千年の滞貨」というのがあります。
滞貨は「売れにくい品物、売れ残り。」であります。
売れ残りになっても、何年かに一度お役に立つならそれでいいと思うのです。
「加齢」「華麗」「遐齢」、
松原泰道先生は、「上手に年を取るのも修行だ」と仰せになっていましたが、そんなことをわが身の事として考えるようになりました。
毎日書いているこの文章も、頭脳の老化防止になっていれば有り難いことです。
幼稚園児とマラソンをした後に、お昼ご飯にカレーライスを食べながら、かれいについて考えていたところであります。
横田南嶺