毎回の食事をどういただくか – 命の祭り –
現代の西洋医学を学ぶ青年や、鍼灸などの東洋医学を学ぶ方や、指圧の方などでこれからの「養生」について考える会があります。
一般社団法人「養生ルネッサンスJIN」といいますが、何度か講座を担当させてもらったことがあります。
養生といいますので、病気にならないように体を大切にすることなのであります。
その会では、養生の五本柱として、
一、食事
二、整体
三、呼吸
四、睡眠
五、思考
を揚げられています。
会の方々がいろいろ考えた末の結論がこの五つであります。
私は、この五つを聞いた時に、『天台小止観』で説かれている調五事というのを思い起こしました。
それからよくこの調五事について話をするようになりました。
坐禅の修行では、調身、調息、調心といって、体と呼吸と心を調えましょうと説くのであります。
その土台となるのが、食事と睡眠であります。
コロナ禍を乗り切るには、なんといっても各自の自己免疫が重要ですし、その免疫を高めるには、この五つを調えることだと思って、よく話をしてきました。
調食=適度な食事をとること
調眠=適度な睡眠をとること
調身=身体を調えること
調息=呼吸を調えること
調心=心を調えること
の五つです。
現代の医学にかかわる方々がたどり着いた結論と、古くから説かれていた教えとがよく似通っているので、興味深く思ったのでありました。
禅寺の食事など、とくに修行道場の場合は、質素なものですが、発酵食品が使われていることが多いと気がつきました。
毎朝の梅干し、毎食いただくたくあん、それにお味噌などは、みな発酵食品であります。
それから冬の坐禅修行には甘酒を作ることもあります。
甘酒も麹で発酵させて作っています。
そんなところから、私はコロナ禍の間に発酵食品についても研究してきました。
発酵については、YouTubeの円覚寺公式チャンネルで、栗生隆子さんと対談をさせてもらっていますので、関心のある方は参照してみてください。
また最近鎌倉に発酵食品のお店を出された青年ともご縁ができて、本日の午後六時にクラブハウスで話をさせてもらいます。
何を食べるかということも重要な問題であります。
いろいろ研究してきてやはり季節のものはいいのであります。
今の時期ならば大根がよくとれますので、大根の煮物などはやはり体を暖めてくれるものです。
夏ならばキュウリや茄子、スイカなど瓜のものは体を冷やしてくれるのであります。
そして何を食べるかと同じく大切なのはどういただくかということです。
結論を申しますと、感謝してゆっくりよく噛んでいただくということに尽きるのであります。
たったこれだけでありますが、それくらい知っている、分かっている方が多いと思いますが、本当に行っている人はそう多くはいないと思うのであります。
本日は午後三時から一口法話ライブで、このどういただくかについて話をさせてもらいます。
ライブで行いますが、いつものように後になっても見られますので、わざわざその時間にご覧にならなくてもいいのですが、同じ時間に話して、同じ時間に見てくれているというのは、やはり有り難いものであります。
チャットという機能がありますので、感想などを聞かせていただければ、またこちらも励みになるものです。
食事五観文について話をする予定ですが、それは一口法話に譲って、『碧巌録』にある話を紹介します。
『碧巌録』の第七十四則に、おもしろい話がございます。
金牛飯桶という公案であります。
岩波書店の『現代語訳 碧巌録』から訳文を引用させてもらいます。
金牛和尚はいつも昼食の時間になると、みずから飯櫃を持って僧堂の前で舞いを舞って、ハッハッハと大笑いして、
「菩薩たちよ、さあ飯を食いに来い」と言った。
雪竇は言った、「とはいうものの、金牛は好意でやっているのではない」。
僧が長慶に問うた、「古人は、『菩薩たちよ、さあ飯を食いに来い』と言いましたが、どういう意味でしょうか」。
長慶「まるで昼食に際して祝賀の法要をしているようだ」。
というのが公案の本則であります。
金牛和尚というのは、馬祖のお弟子であります。
唐の時代、もっとも禅の栄えた頃の、おおらかな雰囲気が伝わってくる公案であります。
朝比奈宗源老師の『碧巌録提唱』を参照して老師がどのように提唱されているかみてみましょう。
「金牛は馬祖のお弟子の一人です。金牛という寺に住職したから金牛和尚。この和尚は改まった説法をしたかしないか知らないが、この事だけが伝わっている。
斎時というとお昼です。
毎日お昼ご飯時になると、自分で台所へ行って飯びつを引っかついで、僧堂は雲水たちが坐っている禅堂です。
その雲水たちがたむろしている前へ行って、飯びつをかついで、舞を作すというのですから、ちっとは手でもふったのでしようね。
そして、呵呵大笑、禅坊主はおちょぼ口でものを言うようなことは嫌いで、まあ開け放しでやるほうだが、この和尚は徹底している。
あはははと、それこそ天地を呑むような大笑いをしておいて、「菩薩子喫飯来」菩薩子というのは、菩薩の子というのですが、雲水たちを指しているわけです、佛様方ということです。さあ佛様方出て来てご飯をお上りとこういうわけです。
喫飯来というのは、出て来てご飯をおあがんなさい、とこういう意味です。
禅寺の決まりでは、ご飯を炊くのは炊く係があり、準備が出来たら、出来たという事を鐘なり太鼓で知らせる。
するとお給仕の係が出てご飯を食べる準備をする。準備が出来たらまた準備が出来た合図の太鼓なり鐘を鳴らし、一同出て行って、一糸乱れずご飯を食べる。
老師といわれる指導者の老僧が、何も自分で飯びつをかついでみんなの前へ行ってそんなこと言わんでもいいんだ。
ところが、何年間やったか知らんけれど何時もそれをやったというのです。
これだけです、これが金牛和尚の大説法として天下に有名になっている。」
というものです。
毎回食事をいただくことができるというのは、それほどの感動なのであります。
素晴らしいことなのです。
お互いの命をお祝いしているのであります。
特別な日の食事だけでなく、毎回毎回の食事がそのような感激するものなのです。
修行道場であれば、ご飯とお味噌汁とたくあんだけの食事であっても、それほど感激するものなのです。
修行道場では今も薪で煮炊きしていますので、薪を割って火をおこし、ご飯を炊くのは重労働なのです。
お味噌汁を作るにしても畑に行ってお野菜をとってきて井戸水できれいに洗って、竃で煮るのです。
たくあんは、大根を托鉢でいただいてきて、それを樽に漬けているのです。
ご飯とお味噌汁とたくあんをいただくだけでもお祭りするほどの行事なのです。
ご飯を食べて何かをするということばかり考えていますと、ご飯は何かをするためにだけ栄養を補給しているように思ってしまいますが、ご飯をいただくこと自体が素晴らしい命のお祭りなのであります。
横田南嶺