立春 – 愚に返る –
立春とは何か、いつものように『広辞苑』に聞いてみますと、
「二十四節気の一つ。太陽の黄経が315度の時。春の始め、太陽暦の2月4日頃。」
という説明があります。
ついでに「立春大吉」という言葉があります。
こちらは、「立春の日、禅家で門口に貼る札の文句。」
と書かれています。
禅家でとありますが、私どもには、そんなお札を貼る習慣はないのです。
そこで、更に『禅学大辞典』を調べてみると、立春貼符という言葉があって、立春大吉と書き三宝印を捺した札をはることをいうそうであります。
曹洞宗では立春の日に読経祈祷して山門あるいは寺内にはるとともに、檀家に配布するを例としていると『禅学大辞典』に書かれています。
同じ禅宗でも曹洞宗は、儀式や作法を重んじているところがありますので、こういう習慣があるのだと思います。
昨日の「節分」は、『広辞苑』には、
「①季節の移り変わる時、すなわち立春・立夏・立秋・立冬の前日の称。
②特に立春の前日の称。この日の夕暮、柊の枝に鰯の頭を刺したものを戸口に立て、鬼打豆と称して炒った大豆をまく習慣がある。」
という解説があって、二月の節分だけではなく、本当は年に四回あるのだそうです。
という次第で、円覚寺では、豆まきもなければ、立春の特別の行事もないのですが、それでも立春という言葉を耳にするだけでも何か春が近づいてきていると感じられるものであります。
二十四節気のような季節毎の行事や催しなどは大切にしたいものであります。
なにも特別なことをしなくても、その時々の季節を感じるだけでも、大自然とのつながりを確かめることができます。
この大きな大自然の営みの中に生かされているのだと思うと、心が安らぐものであります。
与謝蕪村の句に、
寝ごころや いづちともなく 春は来ぬ
というのがあります。
気持ちよく寝ていていると、どこからともなく春が来たという意味でしょう。
気がついたら立春になっていたというところです。
穏やかな春の気配がよく感じられます。
立春で思い出すのが、なんといっても小林一茶の
春立や 愚の上に又 愚にかへる
であります。
一茶がどんな思いを込めて作ったのかは知るよしもないのですが、立春を迎えて、また愚かな一年を過ごすのだろうという思いでしょうか。
この愚については、なかなか容易にできないものがあります。
『禅林句集』に、「其の知や及ぶべし、其の愚や及ぶべからず」という語があります。
『論語』の公冶長第五の二十一にある言葉です。
「子の曰わく、甯(ねい)武子(ぶし)、邦(くに)に道あれば則ち知、邦に道なければ則ち愚。其の知は及ぶべきなり、其の愚は及ぶべからざるなり」というものです。
岩波文庫の『論語』金谷治先生の訳によれば、
「先生が言われた、「甯武子は国に道のあるときには智者で、国に道のないときは愚かであった。その智者ぶりはまねできるが、その愚かぶりはまねできない」ということです。
『新釈漢文大系 論語』には、「国歩艱難の時に当たって、一身の危急不利を顧みず、愚者の如くにして責任を果たすことには及び難い。責任を逃れて愚者の如く振る舞うのではない」と註釈されています。
『老子』には、愚のことを「不肖」として説かれています。
「不肖」は天に似ていないというところから愚かなことを表わします。
『老子 全訳中』講談社学術文庫から引用させていただきます。
[全て天下の人々は、みなわたしのことを大きいと言う。大きくて愚かなのである]。大体、〔大きい]からこそ、愚かになったのだ。もし賢かったなら、とっくの昔に小さくなっていたことだろう。
このわたしには、三つの常に変わらぬ宝があり、それを〔大切に守り続けている]
一つは慈しみ、二つはむだを省くこと、〔三つは天下の先頭に立とうとしないことである。慈しみの心があればこそ、かえって勇敢でありうる。むだを省けばこそ〕、かえって広い領域を統治しうる。
天下の先頭に立とうとしなければこそ、かえって事業を成し遂げる政治の首長となりうるのだ。
それにもかかわらず、慈しみの心を捨てて勇敢であろうとし、〔むだを省くことを捨てて広い領域を統治しようとし〕、天下のしんがりを勤めることを捨てて先頭に立とうとするならば、きっと命を落とすに違いない。
一体、慈しみの心は、〔それをもって戦場で戦えば〕勝利をおさめ、それをもって城郭を守れば守備も固い。天が新しい天下を打ち建てようとしているのだ、そなたは慈しみの心をもってこれを守るがよい。」
というものであります。
「ばかになる」というのは、慈しみの心を持つこと、万事控えめにすることであり、これは足を知ることにも通じます。それから人と争い競争しないことだと言うのであります。
とりわけゆったりとした慈悲の心を持って、あくせく求めることをせずに足るを知ることなのであります。
高浜虚子には、
雨の中に 立春大吉の 光あり
という句があります。
雨の中であっても、立春大吉のお札が貼ってあると、何か光が差し込んでいるように感じるという意味であります。
雨の中にをコロナ禍にと置き換えてみたいものです。
コロナ禍に 立春大吉の 光あり
円覚寺の梅の花も少しずつ開いてきました。
だんだんと春になってくるものであります。
横田南嶺