まだまだ可能性がある
「人間の尊さは可能性の広大無辺なることである。
その尊さを発揮した完全位が佛である」
という言葉でした。
いい言葉だなと思って書き写してきたのです。
我々が本来皆仏である、皆仏心を具えていると、禅では説いているのですが、言葉を換えれば、我々は皆無限の可能性を持っているということでありましょう。
私たちは、その持って生まれた可能性のどれほどを発揮しているのでしょうか。
人は信念と共に若く、疑惑とともに老ゆる。 人は自信と共に若く、恐怖と共に老ゆる。 希望ある限り若く、失望と共に老い朽ちる
とは、よく知られてサミュエル・ウルマンの言葉です。
残念ながら、肉体の衰え、頭脳の劣化は避けられないと実感させられるこの頃でありますが、まだまだ希望を失ってはいけないと思うのであります。
先日も呼吸法アドバイザーの椎名由紀先生にお越しいただいて講習を受けていました。
毎回学ぶと発見があるものです。
人間には、まだまだ可能性があるなと感じるのであります。
はじめて椎名先生に講習をお願いしたときのことですが、椎名先生が、七十代の女性の方に資料を持ってきてもらうとお知らせいただきました。
駐車場まで迎えに出たのですが、どう見ても七十代の方は見当たりません。
お若い女性しかいないのでした。
私は、七十代の方は当日都合が悪くて、お若い方が代わりに見えたのかと思いました。
控え室で挨拶をすると、そのお若い女性がなんと七十代の方だったのであります。
呼吸法のおかげで元気になったのだと言われていました。
普通、年を取ると衰えていくばかりのように思いますが、姿勢を正しく、呼吸を正しく行っていれば、決して衰えるばかりではなく、むしろ若い時よりも元気になることもあるのだと学びました。
希望ある限り若くというのは事実なのであります。
私など、長年坐禅だけを行って今日に到ります。
かなりながく坐禅してきたつもりであります。
それでも、先日椎名先生に、腹横筋を意識した呼吸の仕方を教わって、坐禅の呼吸が更に一層深くなったのでした。
呼吸が深まると、体が休まり、心も穏やかになり、微笑みがあふれてくるものです。
ほんのわずかな違いが大きな差を生み出すのです。
少し調整しただけで、呼吸が深まったのでした。
まだまだ学べば開発されるものがあると知って喜んだのでした。
今回も竹を使って体を緩める方法をたくさん教えていただきました。
これは椎名先生が考案されものですが、実にすぐれています。
自分でできますので、有り難いことです。
腰や背骨のまわりを緩める方法を教わりました。
それからろうそくの火が目の前にあると思って鼻から息を吐くということも実習しました。
私たちの教えでは、鼻の先に鳥の羽があったとしても鳥の羽が動かないように静かに息を吐くようにと教えます。
しかし、はじめから静かに吐くというのはわかりにくいものです。
椎名先生は、はじめは強く火を吹き消すつもりで吐き、次には火が向こう側に揺れるつもりで吐き、三回目に火が揺れないように吐くと、三段階で教えてくださいました。
そうすると、ゆっくり吐くことがより一層はっきりします。
控え室でどうしてこのような方法を考え出したのかをうかがうと、どうして伝えたらいいかということを、いつも考えているからだということでした。
どうしたら伝えられるか、私たちはこの工夫に欠けていると反省しました。
なんといっても椎名先生には、教えてあげたい、知らせてあげたいという熱意、情熱があふれています。
こういうところも私たちは学ぶべきだと思います。
今回も姿勢について細かく指導してもらいました。
前回と同様に、やはり私たちは、坐禅をして無理に腰を入れて坐ろうとしてしまう習慣がついていて、どうしても腰に無理な力が入り、仙骨が前傾していることが分かりました。
それでは腰の筋肉が張ってしまい、無理な力ばかりが入ってしまうのです。
やっかなことには、無理に力んでいることを、修行しているかのように勘違いしてしまうのです。
正しい位置に矯正することによって、自然と丹田が充実するようになるのです。
このようにして私自身常に初学者、初心のつもりになって学びます。
学ぶと新しい気づきがあり、発見があるものです。
講習が終わった後に、椎名先生から人体について書かれた図鑑をいただきました。
その本を読んでいると、ただなんとなしに自分だと思っていたこの体ですが、実に精妙なはたらきをしているのだということが分かります。
ただ単に背筋を伸ばせと言っていますが、背骨は二十六箇の骨によってできているのです。
その一番の土台が仙骨です。
図鑑を読んで勉強していると、あまりにも自分の体のことを知らなさすぎるということも大いに反省させられます。
それと同時にまだまだ知らないことがある、気がついていないことがあるということは、まだ発展する余地もあるということでしょう。
そんなことに気がつくと、まだまだ自分にも可能性があるのだと思います。
六十代、七十代になっても希望と共に若くありたいものであります。
横田南嶺