足下から光を放つ
「そのとき、世尊両足輪下に、百億の光明を放つ」という言葉があります。
お釈迦さまの足下から、百億もの光を放ったということです。
どんな様子だったのだろうかと想像してみます。
眉間の白毫から光を放つというのはよく言われるところですが、足下から光を放つというのであります。
なんともいえぬ神々しいお姿であったことでしょう。
お釈迦さまがお亡くなりになってから長い間、まだ仏像というものがありませんでした。
仏像を作るという習慣がなかっただけなのか、お釈迦さまの姿を写すなど恐れ多いと思ったのか、仏像はなかったのでした。
その代わりに、菩提樹や、法輪、それに仏足を画いてお釈迦さまを表したのでした。
岩波書店の『仏教辞典』にも
「釈迦(釈迦牟尼、釈尊)を造形化することは紀元前2世紀頃のインドで、仏塔(塔)の塔門や欄楯(石の柵)の表面に仏伝(釈迦の一代記)を浮彫で表現することから始まった。
しかしこの段階ではまだ釈迦は人間の姿をとらず、菩提樹や法輪、仏足石・仏塔など釈迦の生涯に関係深い種々の形象を借りてあらわされるにとどまった。
したがってこの段階は<無仏像の時代>と呼ばれる。」
「釈迦が人間の姿で、すなわち仏像として表現されるのは紀元1世紀の後半、当時東西文化の交流地として栄えていた現パキスタン領のガンダーラ地方およびガンジス河の支流ジャムナー河流域のマトゥラー地方においてである。
この場合も、はじめは仏伝図中の一登場人物としてあらわされるにすぎなかったが、やがて説話の主題から独立し、礼拝の対象にふさわしい正面向きの立像あるいは坐像の形式を獲得する。」
ということなのです
仏さまの足は、菩提樹や法輪などと同じくお釈迦さまを表わす大切なものであったのです。
頂礼仏足といって、仏さまのおみ足に頭をつけて礼拝するのであります。
足下から光を放つというのは、禅語では、
「脚跟下、大光明を放つ」と言います。
これは『碧巌録』にある言葉です。
達磨大師と梁の武帝との問答について、圜悟禅師が用いた言葉であります。
達磨大師は、南インドのお生まれで、もと王子さまでした。
出家して般若多羅尊者のもとで修行して、尊者がお亡くなりになった後に、インドから中国に渡ってきました。
海路を三年かけて渡ってきたと伝えられています。
時の中国において、梁の武帝が熱心な仏教の信者でありました。
達磨大師がインドからお見えになったと聞いて、武帝は達磨大師を宮中に招きました。
まずご自身が、たくさんの寺を建て、お経を写し、お坊さんたちを供養してきたことを述べました。
そして、この私にどんな功徳があるでしょうかと尋ねました。
達磨大師は、「無功徳」と答えました。
功徳は無いというのです。
仏教においては、梁の武帝のように在家の信者が、お寺を建てたりお坊さんに供養して功徳を積むことは悪いことではありません。
むしろ推奨されていたことでした。
たくさんの功徳を積んでよいところに生まれ変わるという教えだったのです。
そう考えると武帝の行いは褒められて然るべきでありますが、達磨大師はもっと高い次元のことを求めたのだと思います。
そこで武帝は、聖諦第一義とは何かと問いました。
世俗の真理ではなく、聖なる世界における第一の真理とは何かという問いであります。
達磨大師は、「廓然無聖」と答えました。
廓然とは、広々として何もないさま、無聖とはありがたいもの、尊いものなど聖なるものを払い去った言葉であります。
聖なるものなどどこにもないというのです。
聖なるものを求めてきた武帝にしては理解ができなかったようです。
あなたは誰ですかと問うと、達磨大師は、「不識」知らぬと答えたのでした。
達磨大師は、機縁かなわずと思って、揚子江を渡って魏の国にゆきました。
達磨大師が去って行ったあとに、宝志和尚が武帝に問いました。
陛下は、あのお方がどんなお方かご存じですかと。
武帝は、「不識」知らんと答えます。
宝志和尚は、あの方は観音さまで、仏さまの心を伝えた方ですと言いました。
武帝は、悔しがって、迎えの使者を派遣しようとします。
もう一度達磨大師に帰ってきてもらおうと思ったのです。
宝志和尚は、もはや国中の人が追いかけても達磨大師は戻りませんよと言いました。
原文は「闔国の人去るとも、他、亦た回らじ」というものです。
そこに圜悟禅師が、「志公、也た好し、三十棒を与うるに。知らず、脚跟下、大光明を放つことを」という言葉をおいています。これを著語といいます。
山田無文老師は、『碧巌録全提唱』で、
「志公、也た好し、三十棒を与うるに」
どうだ、志公、そんなやさしいことを言うても、武帝の目は覚めん。
いっそ、武帝のやつに三十棒を食らわせてやったらどうだい。
「知らず、脚跟下、大光明を放つことを」
めいめいの足元をよく見るがいい。観音さまの化身である達磨大師が、大光明を放っておるではないか。そのめいめいの中の観音さまこそ、聖諦第一義じゃないか」と提唱されています。
達磨大師を追いかけるよりも、めいめいの足下を見よ、大光明が放っているではないかというのです。
このところ、足の指などのトレーニングで足の裏をよく見るのであります。
山本玄峰老師は、人間人に見えないところをきれいにしておかなければならないといって、足の裏をいつもきれいにするように気をつけておられたといいます。
改めて足の裏が光ることの大切さ、尊さを思います。
坂村真民先生は、先日紹介した「尊いのは足の裏である」という詩の中で、
頭から
光が出る
まだまだだめ
額から
光が出る
まだまだいかん
足の裏から
光が出る
そのような方こそ
本当に偉い人である
と詠っています。
足下から光が出るようにならねばと思うのであります。
横田南嶺