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臨済宗大本山 円覚寺

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2022.01.28
今日の言葉

無心

無心という言葉があります。

一般にもよく使われます。

『広辞苑』で調べてみると、

無心は、

①心ないこと。何の考えもないこと。思慮・分別のないこと。

②情趣を解する心のないこと。無風流。

③遠慮なく物をねだること。「金を無心する」などという場合です。

④邪念のないこと。「無心の境地」「無心に遊ぶ」という場合です。

一から三まではあまりいい意味ではありません。

仏教や禅で使うのは、この無心の境地などという場合であります。

岩波書店の『仏教辞典』にはかなり詳しく「無心」が説明されています。

「無心」

「<心>とは心の働きで、その働きがないことを<無心>という。

仏教では、妄念を断滅した真心を指していう〔宗鏡録45、83、金剛経、伝心法要下〕。

心は対象に具体的な相を認めて働き、その相にとらわれるが、そのようなとらわれ、迷いを脱した心の状態(無心)こそが真理(法)を観照できるとされる。

禅宗では「無念を宗とす」〔頓悟要門など〕として、無念無想、つまり無心の状態を重んずる。」

と説かれているのです。

禅では雑念妄想を断って迷いを脱した心の状態を無心というのであります。

もっとも無心は、禅が中国で起こる以前にも『荘子』などでも用いられていた言葉であります。

福永光司先生の「禅の無心と荘子の無心」(久松真一他『禅の本質と人間の真理』創文社、1969年)には、

「荘子はまた、真実在すなわち「道」と遊ぶものを猛獣師に譬えて、本当にすぐれた猛獣師が、虎を撃ち殺し、もしくは虎から逃げ出すことをせずに、虎の習性をよく呑みこみ、その習性に順って自由自在に虎を駆使するように、至人は人生の現実から逃避するのではなくして現実の真っ只中に身を置き、現実に執われることなく、現実に傷つくことなく、自由自在に生きてゆくことこそ真の遊びであることをも教えている」

「これは禅における「無想」「無念」が、想を断ち切り、念を断ち切って、空空寂寂の境地に固定することでなく、想の中に在りながら想を離れ、念の中にありながら念に囚われないことであるのと一脈通じたところがあるように思われるが、このような遊びの境地、すなわち、何ものにも囚われない自由自在の心境が、荘子のいわゆる「虚心」もしくは「無心」である。」

と説かれています。

この文章があることを小川隆先生から教わりました。

禅で説く無心というのはどういうことかをよく表しています。

鈴木大拙先生は『無心ということ』の中で、無心の活動として趙州和尚を取り上げています。

趙州和尚のお住まいになっているところには、有名な石橋がありました。

あるお坊さんが来て、有名な石の橋だと聞いてきたけれども単なる丸木橋ではないかと言いました。

趙州和尚が、あなたは丸木橋だけをみて、石橋を見ていないと言いました。

では趙州の石橋とはどのようなものですかと問うと、趙州和尚は、

「驢を度し、馬を度す」と答えました。

驢馬も渡せば、馬も渡すというのです。

大拙先生は、

「この驢を渡し、馬を渡すということ、これはこの前にも申したように、恒河の砂は馬も踏めば獅子も踏む。虫けらも亀の子も通る。あるいはまた大象の足下で蹂躙られるというようなことがあるけれども、恒河の砂は何とも言わずにおる。何の不平もない、何の愁訴もない、また別に腹立てることもない。

驢を渡し馬を渡す石橋もまたこんな塩梅に解釈して見たらどうか。石橋は何を渡しても一向平気でいる、自動車が通ってもよし、何でもいい、それからまた日本人が渡ってもよし、支那の人たちはなおさらだろう、その外西洋人でも蒙古人でもよい。いわば木石のようである。」

と説かれています。

更に、
「禅宗の坊さんでも成り立ての坊さんのようなものは、理屈でもやたらに言いたがる。やたらに人でも殴りたがるというようなことがある。

働きの上では見事だが、驢を渡し、馬を渡すように、本当の宗教心には徹底したとは言われない。

こういうようなことができるには、どうしても無心のところから出て来なければならない。無心のところから出ると、ここにすべてのものを包むという働きが見える。」

と説いています。

無心はすべてを包み込むというのです。

先日小川隆先生のご講義を拝聴していた折に、無心について興味深い話をうかがいました。

無心には、禅的な意味での「無心」とふつうの漢語としての「~する気が無い」「~するつもりが無い」という意味の両様があるそうです。

小川先生は、「南宋の楼子和尚」という禅僧の話をされました。

「南宋の楼子和尚は酒楼から流れてきた「你既に無心なれば 我も也た休す」(你既無心我也休)という歌声を聞いて忽然大悟したという。

これも「あなたにその気が無いのなら、わたしのほうもそれまでよ」という恋の歌が、 転瞬、彼の心中に「無心なれば すべてが自ずと休歇する」という禅的意味を閃き出させたものであろう (『五灯会元』巻6楼子和尚章)」

という話であります。

あなたにその気がないのならという、女性の歌声を、無心になればすべてが片付くと受け止めたというのです。

似たような話を思い起こしました。

江戸時代の大愚和尚の話です。

大愚和尚があらぬ嫌疑を受けてしまって、本山の妙心寺から破門されてしまいます。無実の罪です。

そこで大愚和尚は、真相をはなそうと、本山出頭を思いたち、江戸を発ちました。

東海道三河をすぎ、関ヶ原へかかる頃に、馬に乗りました。

馬子が手綱をとりながら歌を歌っていました。

「何をくよくよ北山時雨(しぐれ)、思いなければ晴れてゆく」

大愚和尚はこの歌を聴いて、京都ゆきをとりやめました。

のちに真相がわかって大愚和尚の無実が明らかになったのでした。

馬子の歌にも真理を知ることができるのです。

無心で打ち込んでいれば、どんなところで真実に気がつくか分からないものです。

潙山和尚に、道とはいかなるものですかと問うと、和尚は無心こそが道であると答えました。

無心に打ち込むばかりなのであります。

 
横田南嶺

無心

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