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臨済宗大本山 円覚寺

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2022.01.27
今日の言葉

生きるとは

毎日新聞の日曜くらぶに、心療内科医の海原純子先生が「新・心のサプリ」という連載記事を書いてくださっています。

毎回楽しみに拝読するのですが、先日二十三日の日曜日には、「生かされている」という題で書かれていました。

この記事には考えさせられました。

一部を引用します。

まずはじめに海原先生が、

「アメリカのメリーランド大学で豚の心臓を人間に移植する手術が行われたという。拒絶反応を起こさないようにあらかじめ遺伝子操作された豚の心臓が使われたということだ。」

と書かれています。

こういうことがあったそうなのです。

移植を受けたのは、五十代の男性で、重い心臓病を患っていて移植以外には治療法がないというのです。

専門家からみると「医学的にみて画期的な出来事」だということです。

移植しか生きる道のない男性にとっては、大きな希望であり、喜びでありましょう。

しかし、考えさせられるものがあります。

そこまでして生きなければならないのかという思いであります。

もっとも、その当事者が生きようとしているのを第三者がとやかく言うべきではないと思います。

まだまだやりたいことがある、小さい子供もいるというのであれば、なんとしてでも生きようと思うのは当然でありましょう。

しかし、それにしても考えてしまうものです。

海原先生もまた、

「確かに他に治療法がない難病の治療ができるのは素晴らしい」と言っておきながらも、「どこか手放しで喜べない思いがある」と書かれています。

海原先生は、「遺伝子操作されて心臓を摘出される豚のことが気になってしまう」というのです。

お優しい先生なのであります。

「もし自分が豚の立場だったら、という気持ちになるのだ」ということなのです。

海原先生は、「医学生のころから動物実験をする時にはいつもどこかに「申し訳ない」という気持ちがよぎった」というのであります。

心臓移植のために殺される豚のことだけではありません。

それをかわいそうというのであれば、私たちがもっと多くの牛や豚を殺して食べている事実を思うべきでありましょう。

海原先生もまた、

「ただそんなことを言っている一方で、焼き肉をおいしく食べている自分がいる。なんという矛盾だろうと思う。」

と書かれています。

もしも心臓移植のために豚を殺していることを残酷だというのであれば、毎日食事のために牛や豚を殺していることも残酷なのです。

そう考えると、生きているということは、残酷なことだと言えます。

海原先生も

「人間が、他の生き物の命の犠牲の上に生命をつないでいる事実は否定できない。」と書かれています。

「命を奪わなくとも他の生き物の力によって助けられていることが多いのだと思う。」

「他の生き物や他者、それも名前も知らない他者の力によって生かされている自分がいるということを思うと、心の中にじんわりと感謝の思いが浮かんでくる。」

と書かれているのであります。

私などは、修行道場で暮らしていますので、普段牛や豚をいただくことはありません。

だから清浄なのかというと、そうは言えないと思います。

大根やにんじんや、畑の菜っ葉にしても、みな生きている命なのです。

尺八演奏家の工藤煉山さんが、尺八を作る為の竹を取りに竹林に入ると、竹が必死になって、入るな、取るなと言ってくるのだと仰っていました。

竹にしてみれば、命が奪われるのですから、必死になって抵抗しているのです。

私たちはそのことに普段鈍感でいるのです。

畑のお野菜ひとつとっても、命をいただいているのです。

そんなことを思う時、私は、生きるということは、悲しい事実だとも思います。

そしてその悲しみを超えてなお生きねばならない厳粛な事実だとも思います。

それだけに真剣に生きなければならないと思います。

先代の管長から教わった話ですが、華道家の安達瞳子さんが、師でもあった父から花ばさみを渡されたとき、「花を切るときは、 ごめんなさいと言うこと」と言われたという話を思い起こします。

この思いを失ってはいけないと思います。

毎日の食事は、厳粛な事実に向き合うものでもあるのです。

自分というものは、独立して存在しているものではありません。

常に自分以外のものをいただいて成り立っています。

空気も水もそうです。

大根や小松菜もそうです。

妙好人の浅原才一がこう言っています。

「ありがたいな、ごをん(ご恩)、おもゑば(思えば)、みなごをん。
「これ、さいち、なにがごおんか。」
「へゑ、ごをんがありますよ。
このさいちも、ごをんで、できました。
きものも、ごをんで、できました。
たべものも、ごをんで、できました。
あしにはく、はきものも、ごをんで、できました。
そのほか、せかいにあるもの、みなごをんで、できました。
ちゃわん、はしまでも、ごをんで、できました。
ひきば(仕事場)までも、ごをんで、できました。
ことごとくみな、なむあみだぶつで、ござります。
ごをん、うれしや、なむあみだぶつ。」

海原先生のコラム記事の題が「生かされている」でありましたが、生きるとは、他の力をいただき、他の命によって生かされていることにほかならないのです。

生きることは、そんな厳粛な事実であります。

それでも生きてゆかねばならないのです。

坂村真民先生が、詠ったように、

人は生きねばならぬ

のであります。

 
横田南嶺

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