生きるとは、食べて寝ること
六月三十日にも、「笑う修行」として伊坪さんに笑いのご指導をいただいたことを紹介しました。
その伊坪さんからお葉書を頂戴しました。
伊坪さんのことを、今一度ご紹介します。
伊坪さんは、愛知県に住んでいる理学療法士の方でいらっしゃいます。
伊坪さんは、「笑いを使った腹式呼吸」を普及させようと、全国を講演して回っているというのです。
お目にかかると、とてもお元気で明るい方なのですが、かつてひどいうつ病を患っていたというのです。
今の伊坪さんからはとても想像できません。
薬も服用され、その副作用にも悩まされて苦労されたというのです。
私が伊坪さんのことを知ったのは、日本講演新聞がご縁でありました。
日本講演新聞の昨年五月二十四日号の社説には
「薬を服用したことにより、副作用で度々睡魔に襲われた。患者を診る空き時間に横になることが増えた。すると同僚から「最近よくさぼっている」と陰口を叩かれるようになり、辛くても横になれなくなった。実家は食料販売店を営んでいたが、近所にスーパーが出店し、実家の店はたたむことになった。程なくして父親が脳梗塞で倒れる・・・。
「あの時はどんどん泥沼にはまっていきました。まさに負のスパイラルでした」と当時を笑顔で思い返す。」
と書かれています。
それが、ある日患者の見舞いに来られた方から、「笑い」を勧められました。
その方は、がんから回復された方だというのでした。
「とにかく、笑いまくれ」という言葉に従い、伊坪さんは、車で一時間かけて通勤するその車中で、「がんが治るなら、うつ病は当然治るだろう」と三年間笑い続けたのでした。
しかし、いっこうに改善の兆しがなかったのでした。
それでも笑っている間は、気分が沈むことがないので続けていたそうです。
ある方から、腹式呼吸で笑うときっと効果がありますよとアドバイスをされて、実践し、現在まで八年間笑いを使った腹式呼吸を実践しているとか、笑いを進化させたことによって、劇的に症状は改善し、うつは消えたと書かれていました。
昨年六月に円覚寺にお越しいただいて、伊坪さんの講習を受けました。
独自に工夫された腹式呼吸によって丹田を鍛えてゆくのであります。
自律神経の集まる丹田を呼吸によって、刺激を与えて活性化させるのであります。
内観の法という丹田呼吸によって、病を克服された白隠禅師にも通じるところです。
その伊坪さんからいただいたお葉書には、一月十三日の管長日記で話をした「無駄はない」というラジオが「とてもよかった」と書いてくださっていました。
伊坪さんは、
「時々うつ病を病んだ二十年間は無駄だった」と思うときがあるというのです。
しかし、伊坪さんは、今「お腹がすくこと」「夜ぐっすり眠れること」「大便が出ること」に感謝できるのは、「うつ病を病んだ二十年間があったからなんです」と書かれています。
この伊坪さんの言葉に、感銘を受けました。
「お腹がすくこと」「夜ぐっすり眠れること」「大便が出ること」などは当たり前のことではないかと思われるかもしれません。
そんな程度のことのために、二十年も苦労したのかと笑われるかもしれません。
しかしながら、禅の修行もやはり同じなのです。
二十年苦労して修行し、やはり「お腹がすいたらご飯を食べること」「大小便をすること」「疲れて眠ること」、この尊さを知るのであります。
これは臨済禅師も仰せになっていることにほかなりません。
岩波書店の『臨済録』から入矢義高先生の訳を引用します。
「師は皆に説いて言った、
「諸君、仏法は造作の加えようはない。ただ平常のままでありさえすればよいのだ。
糞を垂れたり小便をしたり、着物を着たり飯を食ったり、疲れたならば横になるだけ。
愚人は笑うであろうが、智者ならそこが分かる。
古人も、『自己の外に造作を施すのは、みんな愚か者である』と言っている。
君たちは、その場その場で主人公となれば、おのれの在り場所はみな真実の場となり、
いかなる外的条件も、その場を取り替えることはできぬ。
たとえ、過去の煩悩の名残や、五逆の大悪業があろうと、そちらの方から解脱の大海となってしまうのだ。」
というのであります。
仏法というのはなにも特別のことはないというのです。
「糞を垂れたり小便をしたり、着物を着たり飯を食ったり、疲れたならば横になるだけ。」だというのです。
臨済禅師は、
「愚人は笑うであろうが、智者ならそこが分かる。」
と仰せになっていますので、
なんだそんなことかと笑う人は愚かな人なのです。
そうだと分かる人は智者なのです。
人間が生きるということは、食べて寝るだけです。
食べることに加えれば出すことです。
食べて、出して寝ていれば、十分立派に生きているのです。
ところが今の価値観、ものの見方では、食べて寝ているだけはなにもならないというのでしょう。
そんなことはないのです。
食べて寝ていれば、立派に生きているのです。
それ以外のことなどは、おまけのようなものです。
そう思って生きれば気が楽になります。
そして年をとって、食べて寝るだけになっても、これで立派に生きていると思って、悲観せずにすみます。
あたりまえのことですが、このあたりまえが尊いのです。
ただその尊さを知るためには、一度あたりまえを失ってみないと分からないのかもしれません。
あたりまえを失って知るあたりまえの尊さなのです。
横田南嶺