腰骨を立てるとは?
一瞬の遅疑もなく「それは常に腰骨を立てる人間にすることです」と答えます。この立腰を我が子にしつけることができたら、これこそ親として我が子への最大遺産と言えましょう。
しかしそれだけにまた容易ならぬことといえます。
これは森信三先生の言葉です。
森先生の言葉を紹介します。
『立腰教育入門』から引用します。
「われわれ人間が、真に主体の立った人間になる最も具体的な着手点は、結局常時、腰骨を立てつづける事の他にはないのである。」
「古来この点を力説強調してきたのは禅であり、また武道をはじめ、もろもろの芸能の世界においても、すべてはまず「腰骨を立てる」ことを、根本第一義としないものはないと言ってよい。」
「わたくしの「腰骨を立てる教育」は、われらの民族において古来東洋において伝統としてきた「道」の精髄を、今や国民の義務教育において、種子蒔きしようとするわけである。」
「戦後の新教育が、おのおのの自主性・主体性の確立を意図しながら、解放の主張にしても、批判的精神の養成といっても、なるほど一面的にはそれぞれの意義はあるにしても、それらには決してキメ手と言いうるような確立性も、的確性もなかったと言ってよい。」
「教育の真の眼目は、それぞれの一人一人が、真に主体的な人間になることと言わねばならぬ。しかし一人一人をして真に主体的にさせるという事は、実際には容易ならぬ難事といわねばなるまい。かくして教育の困難さとは、実はこの一点に極まるとさえ言えよう。」
「「腰骨を立てる」ことによって、主体性確立の基盤を、いわば即身的な具体性において、固める必要があると考えるわけである。」
「われわれ人間は、何よりもまず身心相即的存在だという点を押えてかかる必要がある。
即ち、この人間存在の根本規定からして、「心を立てようとしたら、まず身を起こせ」というわけである。」
というのであります。
「主体性の確立」ということは教育の上においても、人間として生きる上においても最も重要なことであります。
臨済禅師が「随処に主となれば立処皆真なり」と言われたのも、いかなる場においても主体性を確立せよとのことにほかなりません。
森先生は、
「かくしてわたくしが、この「腰骨を立てる教育」を提唱するに到ったのは、単なる理論的考察の結果ではなくして、実はわたくし自身の生涯をつらぬく自らの実践にもとづく主張なのである。」
と仰せになっています。
では森先生がどのようにしてこの立腰の大事に目覚められたかというと、
「わたくしがまだ十五才の少年だったころ、縁あって岡田式静坐法の創始者たる岡田虎二郎先生の偉容に、目のあたりに接して深い感化影響をうけ、爾来六十余年の永きをこの「腰骨を立てる」という一事だけは、今日に至るまで持続一貫して来たわけである。
実際わたくしの今日あるのは、まったく「腰骨を立てる」という一事を、生涯かけて貫いてきたおかげだと言ってよい。」
ということなのです。
岡田虎二郎先生というのは、静坐法を唱えられた方であります。
岡田虎二郎先生の言葉も含蓄のあるものです。
あえて求むるなかれ。無為の国に静坐せよ。坐するに、方三尺のところあらば、天地の春はこの内にみなぎり、人生の力と、人生の悦楽とはこの中に生ずる。静坐は真に大安楽の門である。
静坐の姿勢は自然法に合する姿勢だ。五重の塔が倒れぬのは、垂直線がしっかりしていて物理的均整をたもっているからだ。静坐の姿勢で坐っていると前後左右から突かれても倒れない。
体の垂直線がきまれば心の垂直線もきまって、泰然たる静寂も、不敵の胆力もこれから生まれる。
満身の力を丹田にこめての一呼吸一呼吸は、肉を彫刻してゆく鑿だ。
傲慢、横着、鬱気、疑心などはみな丹田の力の抜けた時なり。
静坐の姿勢は大工のフリサゲと同じで、大工の都合により変更し得るものではない。毫釐の差は天と地の相違となる。
自分の息が出とるか出とらぬかわからぬくらい静かに楽に長く。
丹田の一点の外、力を入れるな。
ひと呼吸、ひと呼吸に自己という大芸術品を完成せよ。
などの言葉がございます。
森先生は、
「岡田虎二郎先生の創唱せられた静坐法は、座禅を、われわれ日本人の生活様式たる「坐」に即して修正せられたものと言ってよく、このように民族に適した新たなる坐法を創造せられたことは、明治期における偉大な民族的遺産の一つと言ってよかろう。」
と仰せになっています。
そしてさらに
「かくして岡田式静坐法の真理の内包するもろもろの属性の中から、その根本精神を摘出して、それを一点に結晶せしめたのが、わたくしの提唱する「常時腰骨を立てつらぬく」という一事に他ならない。」
というのが森先生の信念になったのであります。
森先生は、
「現在、禅僧の中でも、毎日必ず三十分の座を実行している人が、果たして如何ほどあると言えるであろうか。
静坐法の門流につながる人々のうちでも、自分一人だけで毎日必ず三十分静坐している人が、果たして如何ほどあると言えるであろうか。
生来鈍根なわたくしは、朝夕三十分の静坐をしうるほどの人間ではないので、せめてこの腰骨を立てつらぬくという一事だけは、一応終生をつらぬいて現在に到ったと言ってよい。」
と仰せになっていて、考えさせられます。
しかし、朝夕三十分坐るということよりも、常に腰骨を立て貫くことの方がよほど難事であろうと思います。
私どもの修行では、腰骨という言葉を使いませんが、脊梁を竪起せよと説いています。
脊梁を竪起し、気をして丹田に満たしめよというのであります。
ただ、そういうだけでは、どうしても腰を入れすぎて、反り腰になってしまったり、緊張しているときには腰を入れても普段は腰が抜けてしまったりしてしまいがちであります。
森先生も単に「姿勢をよくして」というだけでは、戦前軍隊の「直立不動の姿勢」のように上体までも硬直的になり易いと指摘されています。
腰骨というだけでは漠然としていますので、先日椎名由紀先生は仙骨を立てることで丁寧に教えてくださいました。
骨盤の模型を示して、仙骨に触れて仙骨の位置をただすことを教わりました。
私たちは、腰を入れすぎてしまって、仙骨が前に傾いていることが多いとわかりました。
それでは丹田に気が充実しないのです。
ただ、腰を立てて腹に気を満たせというだけでは力むばかりで、腰が反ったりして無駄な力ばかりが入ってしまいます。
正しく丁寧に教えることの大切さを椎名先生の講習を通して改めて学びました。
また折りをみて、そんなことを実習できる私の講座を開きたいと思っています。
横田南嶺