晴れの日は覚悟の時
「①空のはれること。ひより。晴天。
②日のあたる所。ひなた。
③ひろびろとはれやかな所。
④はれがましいこと。
⑤表向き。正式。おおやけ。公衆の前。ひとなか。
⑥晴れ着。また、それを着たさま。
⑦疑いが消えること。」
などの意味があります。
五番のおおやけという意味の用例として、「晴れの場所」というのがあって、「晴れ」の反対は「褻」であると書かれていました。
晴れの日とは、単に天気の良い日ということではなく、多くの人から祝福される儀式などを行う日なのであります。
そんな時に身につける衣装が、晴れ着であります。
晴れ着を着る時というのは、うれしい日でもあります。
結婚式などが良い例でしょう。
晴れ着を着て、みんなから祝福されます。
ただ、私は、晴れ着を着る時、晴れの日は覚悟の時だとも思っています。
結婚式なども、晴れ着を着て多くの方から祝福されますが、それと同時に新しい生活を行ってゆくために覚悟を決める時でもあろうと思うのであります。
もっとも、昔のように、先方の家に嫁入りしてひたすら辛抱しなければならない時代と違うのだと思いますが、やはり二人で新しい暮らしをしてゆくには、お互いに責任も生じますし、辛抱しなければならないこともできることでありましょう。
私がそう思うのは、お寺に新しい住職が入って行われる晋山式の時などであります。
まだ若い新しい住職は、その式典においては主役であり、晴れ着を着るのであります。
お坊さんでも晴れ着かと思われるかもしれませんが、法衣や袈裟など、それはやはり晴れ着といえるものであります。
普段の衣装とは異なります。
そんな儀式に参列すると、新しい住職のこれからのご苦労を思うのであります。
晋山式の日一日はお祝いしてもらえますが、その次の日からは、新たな苦労が始まるのです。
晴れ着を着るのは、その覚悟をするためなのかと思ったりするのであります。
成人式もまた晴れ着を着る、晴れの日であります。
そして、同時の成人としての責任を持つようになります。
子供扱いはされなくなります。
これからは大人として、一社会人として生きる覚悟をする時だと思っています。
入学式なども晴れの日でしょうが、やはりこれから学んでいく覚悟を決める時でもあります。
卒業式も同じでしょう。
これからさらに上の学校に進学するか、社会にでるか、いずれにしても新たな覚悟をするときなのです。
ありがたいことに私は、円覚寺の管長に就任したのは今からもう十二年前になりますが、晴れの日である晋山式は行われませんでした。
これは、ひとえに不徳のいたすところにほかなりません。
まだ前管長もお元気であり、円覚寺の中も晋山式をしてお祝いしようという雰囲気では全くありませんでした。
おかげで逆風に帆を張ってこんにちまで来られました。
晴れ着を着せられて、たいへんな覚悟をするということもなく、うかうかと十二年過ごしてきたことになります。
竹に上下の節有りという言葉があります。
竹というのはまっすぐに伸びるのですが、中が空洞であります。
もしも節がなければ、曲がってしまい、折れてしまいます。
所々にしっかりとした節があるからこそまっすぐに伸びることができるものです。
「節から芽が出る」という言葉もありますが、節目節目に晴れ着を着て、しっかり覚悟をしてこそ芽がでるものでありましょう。
一月十日は成人式でありました。
円覚寺では朝比奈宗源老師の頃から、鎌倉市内の新成人を招いて祝賀の会を行っていました。
おおぜいの成人に案内を出して盛大に行っていたものでした。
それが、だんだんと小さくなってきて、近年は二十名ほどで行っていました。
それも昨年と今年と、コロナ禍で開催できなくなりました。
今年はできなくもなかったのですが、鎌倉市の成人式が午前と午後の二回にわたって行われることになったので、例年のように午後新成人を招くこともできなくなったのです。
しかしながら長年の円覚寺の習慣で新成人には、管長の色紙を差し上げるようにしました。
円覚寺にある北鎌倉幼稚園の卒園児を中心に色紙をお送りしてあげました。
色紙に書いた文字は、例年通りに「至誠」であります。
いつもならば、円覚寺で祝賀の会を催して、色紙を新成人一人一人に手渡して、至誠について話をしていました。
今回は郵送にしましたので、こんな言葉を印刷して添えました。
「中国の古典『孟子』には「誠は天の道なり。誠を思うは人の道なり。至誠にして動かざるものは、未だこれ有らざるなり」と説かれています。平易に訳してみますと「天地万物にあまねく貫いているのが誠であり、天の道である。この誠に背かないようにつとめるのが人の道である。まごころをもって対すればどんな人でも感動させないということはない」
まごころをもって接すれば、どんな人でも動かせる力があるということです。
ただし、その至誠、まごころは一時だけのものに終わってはなりません。この上ない誠実さ、まごころを持って生涯を貫くことです。
まごころを持って、どこまでも貫いて、途中でやめることさえしなければ、必ず目に見える成果が現れる。どんな人でも、世の中でも変えてゆく事が出来るということです。嘘偽りの多い中でも、頼りとすべきはまごころひとつ、お互いこのまごころを貫いてまいりたいと存じます。まごころをもってゆけば、必ず道は開かれると信じてまいりましょう。
皆さまの前途幸多きことを祈っています。」
というものです。
毎日新聞の一月十日の余録には、
「「成功する人になろうとするのではなく、価値のある人になろうとしてほしい」。人生の指南を請う若者に老齢の物理学者アインシュタインが返したことばだ。1955年に死去する直前のことだったという」
という言葉がありました。
そして「「価値のある人」と言われても簡単になれるわけではない。意味するところは、自分の利益よりも社会の公益を優先して考える大人になってほしいということだろう。後に若者へのアドバイスの定番になった」というのであります。
余録の終わりには、
「アインシュタインは幼少時、口下手で人間関係に苦労し、中学では校風に合わず自主退学した。ノーベル賞を受賞した天才にも社会と折り合いがつかない少年時代があった。」
と書かれていました。
あきらめずに努力してほしいということでありましょう。
昨年末に故郷の新宮市で講演をしたご縁で、新宮市の成人式でもビデオメッセージを頼まれました。
お祝いの言葉を述べたあとに、
「私が皆さんにお伝えしたいことは唯一つ、心に強く願うことは必ず実現するということです。そんな事は無理だと思うかもしれませんが決してそうではありません。
ただ心に思うことは実現するということに一つだけ条件があります。それは途中であきらめなければということです。
自分はこんなものだ、無理だと自分を見限らないで、今心に願うことをずっと思い続けて努力をすれば必ず実現してゆきます。
これからの世の中を明るい世の中にしていくのかどうか、皆さんの思いにかかっています。明るい未来へ向けてがんばりましょう。」
二、三分でと頼まれたので、二分三十秒で録画して送ったのでした。
晴れ着を身につけて覚悟してほしいことはただ一つ「あきらめない、自分を見限らない」ということだけなのであります。
横田南嶺