なぜ足を組むのか
そして、動くと棒で叩かれると思われているのではないでしょうか。
たしかに、私も十歳の頃から禅寺に通って坐禅してきて、坐禅はそのようなものだとずっと思っていました。
そして、坐禅は結跏趺坐という坐り方が正式なのだと教わりました。
結跏趺坐ができなければ、半跏趺坐でもよいと教えられました。
そうなると、せっかく坐禅するからには、結跏趺坐の方がよいのだと思って、努力して結跏趺坐できるようにして、更に結跏趺坐で長時間坐れるようにしてきました。
私は、決して体が柔らかい方だとは思わないのですが、幸いにも十代の頃から、この坐り方に取り組んできましたので、結跏趺坐でも長い時間坐れるようになりました。
結跏趺坐は、右の足を左の腿の上にのせ、左の足を更に右の腿の上にのせるので、不自由な組み方です。
慣れないと苦痛でしかありません。
ただ、子どもの頃から、坐禅はそういうものだと教わってきましたので、何の疑問も感じずに行ってきました。
私も修行時代には四時間くらいは平気で結跏趺坐して坐ることができました。
そのように何の疑問も感じずに坐ってきましたが、人さまに指導する立場になってから、考えるようになりました。
修行僧の中でも体が硬かったり、或いは膝などに疾患を抱えていると、無理に坐ることができないことがあります。
また一般の方に坐禅の指導をすると、体の柔軟な人でないと、すぐに結跏趺坐はできません。
結跏趺坐をしなければ駄目だという指導は困難であります。
そしていろいろ考えて、結跏趺坐する意味は何かと思うと、やはり腰を立てて丹田に気を充実させることにあると思うようになりました。
そこで、坐禅の要領として、腰骨を立てること、丹田に気を充実させること、長い息をすることに三つを説くようになりました。
そうなると、足を組むということは、この腰を立てることと、丹田に気を充実させるために行うことだと考えるようになりました。
それにしても、では、いったいどうして結跏趺坐という、いかにも不自然な足の組み方をするのであろうか、これにはそもそもいったいどういう意味があるのであろうかと考えるようになりました。
今のお若い人には、どうしても結跏趺坐は苦痛を与えるものです。
そのような苦痛に耐えてまで行う必要があるのかと考えるのであります。
花園禅塾というのが、妙心寺にあります。
花園大学に通う学生が、修行道場に準じた生活をしているところです。
今も二十数名の塾生が修行と勉強に励んでいます。
先日、大学の授業の前の晩に塾生さんたちに、坐禅の為の体のほぐし方を講習してきました。
私自身、そんな体の専門家ではありませんが、自分自身どうしたら坐禅をする体を作れるかについて研究を重ねて、ヨガ、真向法、野口体操、ピラティスや様々な健康法、体操を習ってきましたので、その中からこれは、坐禅をするのによいと思うものを小一時間ほど教えてきました。
やはり結跏趺坐であれ、半跏趺坐であれ、現代の若者には苦痛であります。
ただやみくもに苦痛に堪えるというのも一概に悪いとも言えない面もありますが、やはり、古来坐禅は安楽の法門と言われていますので、無理なく足が組めるようにしてあげたいと思うのであります。
いろんな体操をする前とした後とで、足を組んでもらうと皆一様に楽になったと言ってくれました。
もっともこれは私のために忖度してくれていたのだと思います。
花園禅塾には、塾頭と指導員の方が常駐してくれて、若い塾生さん達のお世話をしてくれています。
最近、私のところで修行した者が指導員をしてくれているので、折を見て指導にゆくようにしているのです。
塾頭さんがとても熱心な方で、有り難いと感謝しています。
桐野祥陽和尚という方でいらっしゃいます。
先月大学に行った折に、桐野さんと話をしていて、なぜ結跏趺坐をするのだろうか、私は今それを考えていますと伝えたのでした。
その後、桐野さんはそのことについて、よく調べて考察をして下さったのでした。
私の何気ない一言に、熱心に取り組んで下さって感動しました。
まず坐禅は「最も安穏で疲れない」ということは『大智度論』に説かれていると教えてくれました。
桐野さんのお話によると、結跏趺坐も半跏趺坐も、立っている時や歩いている時、椅子に坐っている時、そして横になっている時などと比べて一番異なるのは、両手足を限りなく丹田(お腹)に近づけることにあると指摘してくださいました。
これは確かに日常生活のおいては無いことです
そしてこの形を取ることによって、桐野さんは、「母親の腹の中にいる時の何とも言えない安心感を無意識下で感じることができるのではないか」と指摘されました。
更に桐野さんは、
「母親のお腹の中での成長過程は、生物の進化の過程を全て凝縮したものであると言われている。そして、人間として生まれたことで、自分の意志で修行が出来る環境にあり、坐を通じてこれを追体験すること」になるというのです。
そして、中国において発達した「気」を用いて身心を鍛錬する方法から考えても、気の海である丹田から、普段の生活では一番遠い所にある両手足を、坐を組むことによって両手足と丹田を一点に集中させることが可能となり、ここに坐を組む意義があると教えてくれました。
桐野さんのお話しを拝聴して、私もなるほどと深く学ぶことができました。
なんとなしに良いもので、こうするものだと思っていたことが、こうして言葉ではっきり理解できると、今度は人に説明することもできるようになります。
桐野さんはまだ四十代ですが、よく熱心に修行され、そして学問も積んでいらっしゃいます。
またお互いにこうして坐禅について語り会えることは有り難いことだと感謝したのでした。
良きご縁ですので、またこれからもお互いに研鑽を深めたいと思っています。
横田南嶺