不可能に挑む
題は「絶対無理」を覆す、です。
東京パラリンピックの閉会式で「この素晴らしき世界」をピアノ演奏した西川悟平さんという方の話であります。
西川さんの話を海原先生が聞く機会があったそうです。
「西川さんはこれまで三回、「それは絶対無理です。不可能です」と言われたことがあるという」のであります。
「最初は一五歳の時。ピアノ教室に通い始めて初めて熱中できるものをみつけた思いがして、ピアノの先生に、自分は将来音楽の大学に行きたいと話したら、「それは絶対無理」と言われた」というのです。
これを読んで、私にはなぜか分かりませんでした。
記事を読むとピアノ専攻で音楽大学に入るには、二~三歳の頃から一日何時間も練習しないと無理なのだそうです。
なんと十五歳では「絶対無理」というのでした。
しかし、西川さんはどうしてもゆきたいと思って、努力して音楽大学に進むことができたのでした。
二回目の「絶対無理」は、アメリカの著名なピアニストにニューヨークに来ないかと誘われた時だそうです。
まわりの人は、
「そんなうまい話はあるはずはない。絶対無理。ニューヨークで成功するなんて不可能」と言われたのでした。
しかし、西川さんはニューヨークに行って、きっといろんなご苦労をされたのでしょうが、「カーネギーホールで演奏するように」なったのでした。
しかしそんな大成功のある日、突然指が曲がり動かなくなったのでした。
医師からは、「演奏はプロとしてはもちろん趣味としてもできない。不可能。絶対無理」と言われたそうです。これが三回目の「絶対無理」だそうです。
読んでいて、これはさすがに無理だろうと思いましたが、コラム記事によると、
「しかし、友達から誘われて訪れた幼稚園で子どもたちの前で演奏したことがすべてを変えた。
子どもたちは、西川さんの曲がった指などまったく気に留めず演奏を楽しんで踊ったりしているのだ。
それを見て西川さんは動かすことができる指で演奏をしようと決心した。
これが今西川さんが機能が残る七本の指でプロとして演奏を続けられる理由だ。」
というのであります。
「絶対無理、不可能」だとレッテルを貼られてもそのレッテルをはがすことの素晴らしさを海原先生は語っておられます。
何年か前に、武蔵野大学に講演に行った折のことを思い出しました。
大学の入り口のところに高楠順次郎先生の言葉が掲げられていたのでした。
それは
「人間の尊さは可能性の広大無辺なることである。その尊さを発揮した完全位が仏である」という言葉でした。
感動してその場で書き写してきたのでした。
仏とは「無限の可能性」であるというのであります。
大乗仏教ではみんな本来仏であると説きます。
みんな誰しも「無限の可能性」を本来持っているのです。
ところが、『論語』にありますように、自分で自分を見限ってしまうのです。
『論語』に
「再求が曰わく、子の道を説ばざるには非ず、力足らざればなり。子の曰わく、力足らざる者は中道にして廃す。今女は画れり。」
という一節でありまs。
岩波文庫の『論語』にある金谷治先生の訳を参照します。
「冉求が「先生の道を[学ぶことを」うれしく思わないわけではありませんが、力が足りないのです。」といったので、先生はいわれた、「力の足りないものは〔進めるだけは進んで]中途でやめることになるが、今お前は自分から見きりをつけている。」
というのであります。
「無限の可能性」を持ちながら、自分でこんなものだ、無理だと見切りを付けてしまうのです。
最近、とある取材を受けて、聞かれたことがありました。
何でも私が小学生か中学生の頃の話だそうです。
運動会の前の日に大雨が降って、当日運動場は水たまりがあちこちにできる状態となって、開催は無理だと思われたことがあったのですが、私が一人でその水をかきだして開催できるようにしたという話を、私の地元で聞いたらしいのですが、本当ですかという問いでありました。
すっかり忘れていました。
小学生だか、中学生の時だったか、全く覚えていませんが、そんなことがあったのは覚えています。
たしか生徒会長だったのだと思いました。
あちこちに水たまりがあるので、無理だと思ったのですが、雑巾とバケツをもって、水を雑巾に吸わせては、バケツに水を絞ってという作業を、朝早くからくり返したのでした。
あの当時は、まだ純粋な心を持っていたのだと思ったのでした。
取材を受けて思い出したのでした。
こんな純粋な心を失ってはいけないと思いました。
思えば四弘誓願という、私たちが唱えている言葉ですが、これも「絶対無理、不可能」なことでありましょう。
衆生無辺誓願度とは生きとし生けるものすべての悩み苦しみは限りないけれども誓ってこれを救おうという願いです。
煩悩無尽誓願断とは、わがままな煩悩は限りないけれども誓ってこれを断ってゆこうという願いです。
法門無量誓願学とは、教えは尽きることが無いけれども誓って学んでゆこうという願いです。
そして仏道無上誓願成とは、仏道はこの上ないものだけれども誓ってこれを成し遂げようという願いです。
どれも無理といえば無理、不可能と言えば不可能です。
しかし、それを決して駄目だ、無理だと見切りを付けるのではなく、どこまでも挑み続ける心を持たねばならないと、海原先生の記事を読んでいて思ったのでした。
横田南嶺