行き先に我が家ありけり
どういうわけかこの頃あまり見かけなくなっていたように感じます。
かたつむりを見ると、いろんな言葉が思い浮かびます。
かたつぶり角振り分けよ須磨明石
という俳句は、松尾芭蕉の句であります。
「カタツムリよ、須磨と明石の方角を2本の角を振り分けて示してくれ、というのだろう。」
という解説は今年の五月三十日に毎日新聞の「季語彩彩」にある坪内稔典先生の言葉です。
足元にかたつむりを見つけ、またその日は天気がよくて、遠くに富士山を見ることができました。
円覚寺からは、天気が良くで、空気が澄んでいると富士山を見ることができます。
蝸牛 登らば登れ 富士の山
という句も思い起こしました。
更に
たゆまざる 歩みおそろし かたつむり
という句も思い起こして、かたつむりをしみじみと見つめておりました。
それから、更に、
行き先に 我が家ありけり かたつむり
の句もまた、思い起こすのであります。
『臨済録』には
「一人有り、劫を論じて途中に在って家舎を離れず。
一人有り、家舎を離れて途中に在らず。」という一節があります。
岩波文庫の『臨済録』の訳には、
「一人は永劫に道中を歩みつつ、しかも本来の場所に身を置いている。
一人は永劫に本来の場所を離れて、しかも道中を歩んでもいない。」とあります。
どこかに到達しようという目標点を定めると、そこへ到る道からそれてしまうということが起こったりします。
また、到達できた、まだできないという差もでてきます。
すなわち、迷うことが生じます。まだ到達できない苦しみも生まれます。
どこへゆこうとも、そこに落ち着いていようと思っていれば、迷うことはありません。
かたつむりは、どこへ行こうと、そこが我が家で休むことができるのであります。
修行というのは、どこまでも向上を求めるということと、どこでもそこが我が家、そこが完成であると落ちついているという二つが必要であります。
ちょうどそのかたつむりを見つけた日には、佐々木奘堂さんにお越しいただいて、坐禅の講義と実習をしてもらいました。
奘堂さんは、ギリシャ彫刻のフィディアスの「ディオニソス像」を理想とされています。
その「ディオニソス像」に比べれば、私たちの坐禅などは腰が立っていないというのであります。
「我を非として当たる者は吾が師なり。
我れを是として当たる者は吾が友なり。
我れを諂諛(てんゆ)する者は吾が賊なり」
という言葉がございます。
『荀子』の中にある有名な言葉です。
意味は「自分の欠点を指摘してくれる人はみな、自分にとって先生である。
自分の長所を指摘してくれる人はみな、自分にとって友達である。
自分に媚びへつらう者は自分にとって賊である」
というものです。
自分を否定してくれるのは、有り難いことであります。
更に前進できるのであります。
今回も、熱意あふれる講義をして下さいました。
修行僧達も何度も何度も奘堂さんの講義を聞く内に、坐禅に取り組む姿勢が変わってきています。
有り難いことであります。
奘堂さんは、白隠禅師の「臘八示衆 第三夜」にある、
「天神七代、地神五代、並びに八百万の神、悉く皆身中に鎮坐す。
此の如く鎮坐の諸神を祭祀せんと欲せば、…脊梁骨を竪起し、気を丹田に充たし、正身端坐せよ。… 則ちこれ天神地祇を祭るなり。」
という言葉を示してくれました。
これは私がまだ小学校の頃初めて由良の興国寺の目黒絶海老師のお話しを拝聴したときに、聞いた言葉であります。
私たちの体には、天の神、地の神、八百万の神々が鎮座してくださっているのであります。
この神々をお祭りするのは、腰骨を立てて、気を丹田に満たして、体をまっすぐにして坐ることだというのであります。
また如浄禅師の言葉も示してくれました。
昼夜、脊梁を竪起し、勇猛にして切に放倒すること莫れ。
という言葉であります。
奘堂さんは、いつも腰を立てるというのは、立ち上がるぞという気概が大切だと説かれます。
腰骨をどうこうしようという動作ではないというのであります。
今回も、坐禅というのは足の付け根で立っている姿勢なのだという指摘をいただきました。
永遠なるものを求めて永遠に努力する人を菩薩というと、高田好胤さんは仰っていましたが、お互いに永遠なるものを求めて精進できることは有り難いことであります。
永遠なるものを求めると同時に、お互いは既に仏である、神々が鎮座してくださっているという確信も大切であります。
私がはじめて絶海老師のお話しを拝聴した時に、老師は、まず今日ここにお集まりの皆さんは仏様ですと拝まれたことを思います。
奘堂さんは今回も、ドストエスフキー著『白痴』にある、
「この蠅すらも宇宙の宴に與かる一人で、自分のゐるべき場処をちゃんと心得てゐるのに、余一人きり除けものである。(米川正夫訳)」という言葉も紹介してくれました。
そして、どこであろうと、その場で立ち上がる、起き上がる気概を持っていれば、どこでも我が家であると言うことができます。
そこに身を正して坐ることができるのであります。
行き先に 我が家ありけり かたつむり
であります。
横田南嶺