だけ
「いきものがかり」というのは、私にはよく分からないのですが、若い者に聞くととても有名な、音楽をなさる方らしいのであります。
その水野さんが、とある大学の芸術学部の講義に招かれた時の話を書いていました。
水野さんは、「若い世代の空気に触れられるのはうれしい。」と書かれていて、この感覚など、私は全く同感であります。
大学に行って講義をするのはたいへんなことで、特に私の場合鎌倉から京都まで行くので本当になお一層たいへんなのですが、やはり若い世代の方に触れることができるのは有り難いことだと思っています。
水野さんが芸術学部の学生から、
「自分は音楽を専攻しているのですが、大学の四年間、音楽しか勉強しないことに不安を感じています。他に経験しておくべきことはないでしょうか」
という質問を受けたという話です。
水野さんは、「良識ある大人」として、専門以外の一般常識や社会知識を身につけた方が本人の将来にとってプラスになるということがいいと分かっていながらも、心に湧き上がってきた本音を口にされたそうです。
その本音とは、
「四年間も音楽だけに集中できるなんてうらやましい! 気にせず、存分に勉強したらいい!」
というものでした。
水野さんは、記事のなかで「恥ずかしいばかりだ。全く気の利いた助言になっていない。もっとバランスのとれたことを言うべきだった」と書かれていますが、素晴らしい答えだと思いました。
そして更に水野さんは、言葉を加えて「僕なんか、なかなか集中して学ぶ機会をつくれないから、今から仕事を減らして音楽大学を受験できないか真剣に悩んでいるんです」
とまで語ったという話であります。
文章を読むだけで、こちらも血潮のたぎる思いがします。
「音楽だけ」というのは素晴らしいのであります。
私は、記事を読んで、すぐに坂村真民先生の「だけ」という詩を思い出しました。
こういう詩であります。
だけ
僕は詩だけしか書けませんよ
と言ったらKさんが
そのだけがいいですよ
だけでなかったら
だめですよ
と言われた
なんでもない
電話での会話だったけれど
ひどく心にしみた
真民先生は、この「詩だけ」にいのちをかけて、「詩だけ」をコツコツ、コツコツ作り続けられたのでした。
それだからこそ、人の心に響き、そして今も読み継がれ、多くの人に感動を与え続けているのであります。
学生時代に、松原泰道先生のお寺を訪ねた時に、ちょうどその時には、泰道先生しかいらっしゃらず、寒い時で先生がストーブをつけるのに難儀をされていたのを覚えています。
とっさに私がつけて差し上げたのですが、先生は「僕はストーブのつけ方もわからないのだ」と仰せになりました。
ちょうどそこへ奥様がお帰りになってきて、「この人は、マッチひとつつけられないのです」と笑いながら仰っていました。
これはご冗談でありましょうが、布教のために法話と執筆に専念されていた泰道先生ならば、あり得ることかなと思ったことでありました。
なんでもできるというのも尊いことで、今の時代には求められるのかもしれませんが、一つのことをコツコツただ行うのも大切なことであります。
私など、恥ずかしながら、「坐禅」だけをやってきたのでした。
禅の道に生きると決めたからには、学校に通っても要らないことはしないようにしました。
まず数学など必要ないと思いました。
本を読む時のページが読めて、あとは買い物のときの簡単な足し算引き算ができれば十分だと思って、その分を漢詩文の勉強にあてるようにしていました。
専門以外のことを切り捨ててきました。
筑波大学に入ったものの、教育の大学でありながら、教職課程をとると、自分の専門以外のこともたくさん学ばなければならいのでこれも切り捨てたのでした。
漢詩文にサンスクリット、パーリ語など仏教に必要なことだけに集中してきました。
思えば、仏教が日本に根付くようになったのは鎌倉時代でありますが、鎌倉仏教というのは、「だけ」の仏教だとも言えましょう。
道元禅師は、只管打坐で文字通り坐禅だけを強調されたのでした。
法然上人は「専修念仏」で南無阿弥陀仏の念仏だけを唱えました。
親鸞上人も念仏だけであります。
日蓮聖人は、法華経だけであります。
人間は、何かを成し遂げようと思うなら、何をやるかということと同じく、何をしないか、何を捨てるかということも大切であります。
あれもこれもやっていたのでは、ものにならないのであります。
ただ水野さんも心配されたように今の時代には、「だけ」では通じにくく、一般常識や社会知識なども必要なのでありましょう。
難しい時代であります。
真民先生の七字の歌を紹介します。
七字のうた
よわねをはくな
くよくよするな
なきごというな
うしろをむくな
ひとつをねがい
ひとつをしとげ
はなをさかせよ
よいみをむすべ
すずめはすずめ
やなぎはやなぎ
まつにまつかぜ
ばらにばらのか
横田南嶺