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臨済宗大本山 円覚寺

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2021.12.06
今日の言葉

水の中にあって水を知らず

一大事ということについて、昨日お話し申し上げました。

もっとも大事なことという意味から、「容易ならぬできごと。重大な事態・事件。」という意味で使われたりします。

『法華経』には、仏さまがこの世に現れる目的のことだ説かれていて、それは生きとし生けるものを、みな救うということでありました。

ただし、禅門では、自らの修行を完成させること、看話禅においては公案をすべて終えることを言ったりします。

『法華経』で説かれる、生きとし生けるものを救うということは、人々に佛の智慧を開き、示し、悟らせ、入らしめるということであります。

みんなに佛の智慧を開いてもらうというのが、『法華経』で説かれる一大事なのであります。

この一大事について、今北洪川老師は、これは決して佛様、お釈迦様だけに限ったことではないと説かれています。

張三李四といえども、みなこの一大事の為にこの世に生まれたというのであります。

張三李四というのは、どこにでもいる人、誰でもということです。

洪川老師にそのように言われても、私などは、とてもそんなすべての人に悟りの智慧を開いてもらう為に生まれたなど、おこがましいことで、受け入れ難いものがあります。

しかし、皆人は、佛の智慧を開いてもらうために生まれてきたというのです。

佛の智慧ということは、お釈迦様の教えでは、無常、苦、無我である真実に目ざめることであります。

とくに無我の真実を見抜くことこそが、その主眼であります。

仏教の説く救いというのは、人々に無我の真実に目ざめてもらうことにほかならないのです。

なんとなれば、我というものを認めること、自我こそが争いを生み出し、苦しみを生み出す根本だからなのです。

そして更に、洪川老師は、人は皆大事因縁の中にいながら、その大事因縁を知らない、それは、あたかも魚が水の中にいて水を知らないようなものだと説かれています。

大事因縁の中にいながら、大事因縁を知らないというと、この大事因縁という言葉の意味が大きく異なってきています。

大事因縁とは、はじめはもっとも大事なことという意味から、人々に佛の智慧を開いてもらうという意味でありました。

そこから更に、佛の智慧そのものを指すようになっていったのです。

佛の智慧とは、仏心のはたらきであります。

仏心そのものと受け止めてもよろしいかと存じます。

仏心に目ざめることという意味から、仏心そのものを表すようになったのです。

そうしますと、仏心の中にいながら、仏心に気づいていないということになります。

そうすると朝比奈宗源老師の言葉を思い起こします。

 仏心の中に生き死にはない。 
 いつも生き通しである。
 人は仏心の中に生まれ
 仏心の中に生き
 仏心の中に息を引き取る
 生まれる前も仏心
 生きている間も仏心
 死んでからも仏心
 仏心とは一秒時も
 離れていない

東嶺禅師は「魚は水中に居て水を知らず、人は妙法の中にいて妙法を知らず」と仰せになっていますが、洪川老師も、私たちが大事因縁の中にいながら、大事因縁に気がついていないということを、魚が水の中にいて水を知らないのと同じだと説いています。

魚は、全身水の中にいます。

頭から尻尾までからだ丸ごと水の中です。

飲むも食べるも皆水なのであります。

それでいて水を知らないのです。

では、いったい水の中にいることに気づかない魚にどうしたら水に気づかせることができるのでしょうか。

魚を一度水から出してみると、魚は、苦しくなり、ようやく今まで水の中にいたのだと気がつくでしょう。

人は仏心の中にいながら、気がついていないのです。

仏心は大慈悲の心です。

仏さまが私たちをどうしたら救うことができるかという思いでいらっしゃるのです。

そんな大慈悲の中に包まれていながら、私たちは、そのことに気がつかないのであります。

あたかも親の心、子知らずのようなものです。

では、どうしたら気がつくことができるのでありましょう。

魚のように水から出すわけにはゆきません。

魚が水の中にいるように、私たちは空気に包まれています。

しかし、この空気を自覚することも感謝することも日常ほとんどありません。

時に息が苦しくなったり、呼吸が困難な状況になると、はじめて空気の有り難さに気がつくことであります。

そこで、それぞれが気力体力の限界に挑戦して坐禅修行して、自らの自我意識が擦り切れる時に、ふっと仏心の中にはじめからいたのだと気がつくものであります。

今北洪川老師もまた、儒学者として一家を成していながら、すべてを捨てて出家し、京都の相国寺で大拙老師に手厳しく指導を受けて、二年間も公案が通らずに、絶望のどん底で坐り抜いていました。

あるときふと、「あたかも死に切った如く、我も物も没し去って、ただ体内の気が全世界に充ち充ちて無限の光を放つように思われた」という体験をなされたのです。

はじめから光りの中にいながら気がつかなかったと、気づいたのです。

そんなわけで、あえて十二月になると、厳しい一週間の坐禅修行をするのだと洪川老師は、修行者たちに説かれたのであります。

水の中にいながら水に気がつくということは容易ではありません。

 
横田南嶺

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