空とはどういうことなのか
まず岩波書店の『仏教辞典』には、
「空」について
「固定的実体の無いこと。実体性を欠いていること。うつろ。」と解説されています。
空ということは、般若思想で強調されて説かれる教えであります。
しかし、お釈迦様の教えの中にも既に含まれたいたものでもあります。
たとえばよく用例として出されるのが、『ブッダのことば』スッタニパータにある、
「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、死の王は見ることがない」
という言葉でありましょう。
世界を空であると見よと説かれているのです。
世界が空であるとは、どういうことでしょうか。
般若経典の一つである『金剛経』には、
「世界は世界に非ず、是れを世界と名づく」という言葉があります。
「世界」といっても、はじめから「世界」という名の実体があるのではなく、何の名もないものを仮に「世界」と名付けているだけであります。
今勉強している机にしても、はじめから机というものがあったのではありません。
木を切って、机の形に組み立てて、その上で勉強したりしますから、机と名付けられるのであります。
同じ材質であってもその上に人が乗っかれば、踏み台と呼ばれます。
バラバラにして風呂の焚き付けにしたら、薪になります。
また同じく『スッタニパータ』には、
「無花果の樹の林の中に花を探し求めても得られないように、諸々の生存状態のうちに堅固なものを見出さない修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。
蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。」
という言葉もあります。
ここには「空」という言葉は出ていませんが、「空」をよく表しています。
岩波書店の『仏教辞典』にも
「サンスクリット語のシューンヤは、「…を欠いていること」の意」と解説されていますが、無花果の樹の林には、花がないのです。
これを「無花果の林には、花が空である」というのです。
無花果は無花果と漢字で書くからには、花が無いのに実がなるのでしょうか。
決してそうではなく、花は私たちの目にみえない状態で咲いているのだそうです。
それから更に、ここで説かれている「諸々の生存状態のうちに堅固なものを見出さない」ということが「空」なのであります。
「堅固なもの」が空なのです。
たとえていうと、空に浮かぶ雲のようなものです。
雲は水蒸気からできています。
空気には、川や海、地面から蒸発した水蒸気が含ふくまれています。
また、空気には、水蒸気以外にも、小さなほこりやちりも含まれています
水蒸気を含んだ空気を冷やすと、ちりなどの空気中のゴミのまわりに、水滴がびっしりとついて、雲の粒ができます。雲はこの雲の粒が集まりです。
雲の粒は、軽いので上昇気流で空に浮かびます。
そこで空に雲が浮かんでいるように見えるのです。
しかし、それは雲の粒の集まりであって、そこに堅固なものはありません。
ただ浮いているだけなのです。
飛行機が飛んで雲の中に入っても、なにもぶつかるものなどないのです。
『金剛経』には、
「一切有為の法は、夢幻泡影の如く、露の如く亦電の如し、応に是の如きの観を作すべす」という言葉があります。
すべてのものは、夢のように、幻のように、露や、稲妻のように、何も堅固なものがないのです。
これを実体がないと言います。
自性がないとも言うのです。
自性というのは、それ自体で成り立つものです。
自性が無いということは、様々な原因と条件が合わさって仮に成り立っているということなのです。
というわけで、因縁生であり、相依相関関係にある縁起によって、成り立つもので、そこに自性が無いということなのです。
その自性が無いということを、「空」というのであります。
『仏教辞典』で説かれる通り、空とは「固定的実体の無いこと。実体性を欠いていること」なのです。
お互いは五蘊という五つの集まりであります。
色受想行識です。
色は肉体です。受は感受です、想は想念です、行は意志です、識は認識です。
しかもその五蘊というものも、
色は泡沫の如し、
受は水泡の如し、
想は陽炎の如し、
行は芭蕉樹の如し、
識は幻の如し
と説くのです。
この肉体というと固いもののように感じますが、細胞の集まりです。
その細胞も次々と生まれては死んでしまって入れ替わります。
七年もすれば、体の全部が入れ替わるのだそうです。
そこに堅固なる自性は存在しないのです。
感受も、想念も意志も認識もみな陽炎のようなものにすぎないのです。
このように五蘊は空であると智慧の眼で観ることによって、一切の苦しみから解放されると説かれます。
なぜ苦しみから解放されるかというと、苦しみを生み出す原因である「自我」が無いと智慧で観られるからなのであります。
縁起であることは、因縁生ということであり、そこには自性というものがない空であり、空の世界は個別の差別が無く、平等の世界であり、それは仏心の世界でもあります。
仏心はその空であると観る智慧であり、智慧からは、自他不二の立場から慈悲が現れて、利他行へと進むのであります。
というのが、空の理解であります。
理解だけでは不十分なので、この空の世界、平等の世界、仏心の世界を体得するべく、私たちは坐禅の修行をするのであります。
横田南嶺