願い限りなし
これは、「徳雲の閑古錐、幾たびか妙峰頂を下る。他の癡聖人を傭って、雪を担って共に井を埋む」という言葉がもとになっています。
白隠禅師が『毒語心経』という般若心経の註釈のなかで用いられています。
禅文化研究所発行の『般若心経毒語註』にある山田無文老師の解説を参照してみましょう。
「閑古錐というのは先の丸くなった錐ということで、人間の心が丸くなった修行のできた人ということである。
痴は愚かということです。
妙峯山という山の上に暮らしておられた徳雲という菩薩が、友達の余り賢くない菩薩を頼んで、毎日二人で、雪を桶へ入れてかついで、その雪を運んでは、井戸を埋めた。
しかし、雪をいくら井戸へもっていって埋めても、雪はとけてしまって無駄だ。
役に立たんということだ。昔の菩薩は、こういう無駄なことばかりをしておられた。
この詩と同じように、白隠禅師も無駄なことをしておられます。
空になれ、空になれと教えるのは、雪を井戸の中へうずめたと同じことで何もならんじゃないか。無駄骨じゃないか。
しかし、そのきれいな心になることが、人生の一番幸せなことですよ。」
ということであります。
これは白隠禅師の作られた詩ではなく、もとは雪竇禅師という方の詩であります。
雪で井戸を埋めても雪は溶けてしまいますから、埋まらないのです。
それでも埋めようと雪を運び続けるというのであります。
私たちがいつも唱える経文に、四弘誓願があります。
その第一番が、衆生無辺誓願度であります。
衆生は生きとし生けるものです。
生きとし生けるものは、無辺にあります。
限りありません。その限りない人々を救ってゆこうという願いであります。
この願いもまたかなえられることはありません。
それでもただひたすら願い続けるというのであります。
白隠禅師のお弟子の東嶺和尚は、その著『宗門無尽灯論』のなかで次のようなことを述べておられます。
原文は漢文ですが、意訳して紹介します。
修行を正しく進めてゆく道は、願いをもつことが根本である。
願いの力が深く重い者は、どんな天魔も邪魔することができないのである。
願いの力が弱いから、様々な困難なことに遭ってしまうのだ。
願いの力というのは、人々を救おうという大悲の心だ。
自分の悟りだけを求めるようでは、小さな見識にとどまってしまう。
喩えていうと、商人でも自分の家だけもうかればいいと思っていると、わずかなもうけで満足してしまうが、広く世間の人々に施してゆこうと思う者は、わずかな利益で満足することはないようなものだ。
そこで、四弘誓願では、まず生きとし生けるものを救おうという誓いを第一にして、そして自分の心の本性を明らかにして煩悩の本を断って、ひろく教えを学んで菩薩の行をおこして、大悲と大智とが円満になる、これを仏道というのだ。
と説かれています。
仏道では、上求菩提下化衆生ということが常に説かれます。
上はどこまでもこの上ない悟りを目指し、下はどこまでも悩み苦しむ人たちを救おうと願うのであります。
悟りだけを目指すのであれば、どこまでも自分の満足を求めることになりがちであります。
それは我見になってしまうことがあります。
我見こそは煩悩の根本なのです。
悟りたい、自分だけ救われたいという我見になっては、却って苦しみを増すのであります。
そこで、人を救おうという願いが大事になるのであります。
白隠禅師は、春日大明神の言葉をよく説かれています。
明恵上人と解脱上人とが春日の神様に参詣していたそうです。
すると明恵上人に対して春日の神様は,内陣の扉を開けて顔を見せ親しく話をしてくれたそうです。
ところが、解脱上人に対しては扉を開けるだけで顔を見せず,話もしなかったのでした。
それを訝しんだ解脱上人に対し春日の神様は,「学業が優れているので後ろ姿を見せたが,菩提心が無い点は返す返すも残念だ」と告げられたのでした。
その時の春日の神様の言葉が「およそ拘楼孫仏より以来、たとえ天下の智者高僧も、菩提心無きは皆悉く魔道に落つ」というものです。
そこで白隠禅師は「菩提心とはどうした事ぞ。…上求菩提と下化衆生なり。四弘の願輪に鞭打あてて、人を助くる業をのみ。」
というのであります。
菩提心とは、もともとは菩提を求める心を言いましたが、「自未得度先度他」といって、自ら未だ得度せざるに先ず他を度すという、自分よりもまず人を救おうという心を指すようになっていったのです。
「人をのみ渡し渡して己が身は、岸にのぼらぬ渡し守かな」という古い和歌の心であります。
『延命十句観音和讃』のなかに、
「われをわすれて ひとのため
まごころこめて つくすこそ
つねに変わらぬ たのしみぞ
まことの己に めざめては
きよきいのちを 生きるなり」
とあります観音様の心であります。
観音様は、衆生の苦しむ声を聞いて、何とかしてあげようと救いの手を差し伸べる菩薩様です。
禅宗で観音経を読み、観音様を念じるのは、お互いがこの観音様の心になることを説くのであります。
大慈大悲の菩薩になるように願って、毎日毎日観音経を唱えるのであります。
この願いと行とは終わることがないのであります。
横田南嶺