危難に臨んでも動じない心 – 浩然の気 –
今北洪川老師は、文化十三年一八一六年に大阪の福島でお生まれになり、明治二十五年一八九二年、円覚寺においてお亡くなりになっています。
数え年で七十七歳でありました。
洪川老師は、幼少の頃より儒学を修めました。
七歳から学び始めわずか二年で四書五経を諳んじたと言います。
十三歳で、秦漢以上の書物をほとんど学び終えたというのですから、驚きであります。
藤沢東畡、篠崎小竹、広瀬旭荘などについて学ばれました。
十九歳の時には大阪の中之島で塾を開いて、諸藩の門弟たちに講義をされていました。
ある時に、『孟子』を講義していて、『孟子』の中にある「浩然の氣」のところに到って、「孟子は浩然を説く、我は浩然を行うと」と声をあげられました。
門人たちは皆驚いたということです。
「浩然」というのは、「広くて大きいさま。ゆったりしたさま。水がどんどんと流れて行くさま。」と漢和辞典には説明されています。
「浩然の気」というと、『広辞苑』には、「天地の間に満ち満ちている非常に盛んな精気。俗事から解放された屈託のない心境」と説明されています。
『孟子』を調べてみますと、
「我善く吾が浩然の気を養うと。敢えて問う、何をか浩然の気と謂う。曰く、言い難し。その気たるや、至大至剛、直を以て養いて害なうことなければ、則ち天地の間に塞ちる(みちる)。」
と説かれています。
意訳しますと、「私は、浩然の気を養っている」。「浩然の気とは何なのですか」と問うと、「なんとも説明しにくい。浩然の気とは、何者よりも大きく最高に強いもので、少しも曲がることがなく、まっすぐに養えば天地の間いっぱいに満ちるものである。」というところです。
この「浩然の気」を解釈したり、説いたりするのではなく実践したいと思ったのです。
そこで、既に結婚もされていたのですが、出家を決意されました。
「浩然の気」を実践するために禅の道に入ったのでした。
出家の時の偈も残されています。
孔聖釈迦別人に非ず。
彼は見性と謂い此は仁と謂う。
脱塵怪しむこと莫れ、吾が粗放なることを。
箇の浩然一片の真を行ぜん。
というものです。
意訳しますと、孔子も釈迦も別人ではない、釈迦は悟りの道を説き、孔子は仁の道を説かれた。今自分が出家することを荒っぽいことをすると思わないでほしい、私は、浩然の気のひとつの真を行じたいのです。
ということです。
当時京都の相国寺の大拙老師が、「鬼大拙」の異名をとるほど厳しい師家として知られていましたので、相国寺に入門して参禅を始めました。
既に二十五歳になっていました。
大拙老師に参禅しても老師の室内に入るたびに、「熱喝瞋拳」を見舞われるばかりでありました。
毎日毎日大拙老師の室内に入るたびごとに、罵り叱られてばかりでした。
室内から出てくるたびごとに、洪川老師は、涙を流されたと言います。
自分は罪業が深くて、悟りを開くことはできないのだろうかと悩まれたのでした。
このあたりのことを老師の著書『禅海一瀾』で説かれていますので、柏樹社から刊行された『禅海一瀾』にある盛永宗興老師の訳を紹介します。
「私は昔、この事を憂え発憤し、くまなく明眼の師を求め、幸いに京都で立派な老師に出会い、弟子の礼をとった。決死の覚悟で、「自分はこれから大道を究める修行をして、もし五年十年にして悟ることができなければ、孔子のいわゆる『朽木糞牆』であって、世に永らえても何の役にも立たない。必ず山中に身を晦まして、二度と世間に立ち交わることはすまい」と誓った。
身を擲って修行に励み、身につけるものは一枚の衣と一つの鉢、口にするものは粗末な食事、身に触れるものは、師の熱喝、瞋拳。胸中時に恨み悩み、あるいはもだえ苦しんだが、愈々倍々奮い立って、志が衰えるという事はなかった。
苦修が久しく続いたある夜、禅定に入って急に自己を忘れ、一切何物も無い絶妙の境地に入った。
あたかも死に切った如く、我も物も没し去って、ただ体内の気が全世界に充ち充ちて無限の光を放つように思われた。
寸時にして我に帰れば、視るところ聴くところ言動すべてガラリといつもとは異なっていた。
今まで学んで、知識として知っているこの世の至理妙義といわれるものが、一つ一の事物の上に明らかにあらわれているのが分かった。
歓喜の余り、思わず舞い踊る心地であった。
そして息もつかずに叫び続けた。「百万の経典も太陽の下の灯のようだ。何と素晴らしいことか。何と素晴らしいことか」と。」
というのでありました。
大拙老師からは、「危うきに臨んで変ぜざるは、真の大丈夫」という言葉を書き与えられています。
こうして、洪川老師は、どんな危難に出会っても動じない心を得てゆかれました。
のちに岩国の永興寺に住していたときに、第二次長州征討にあいます。
幕府軍が攻めてくる中にあっても洪川老師は、死を覚悟して遺偈を読み、泰然としていました。
魔を殺し仏を殺す。五十一年、末後冤無し、清風天に亘る。
という偈が残されています。
更に明治八年洪川老師が六十歳で、円覚寺にお入りになりました。
明治維新で、それまで受けていた幕府の庇護を失い経済的にも疲弊し、廃仏毀釈で大きな打撃を受けていた円覚寺でありましたが、まず禅堂を再建し、更に一般在家の方の道場も開いて、困難な時代の中を、更に禅を弘めて、困窮した円覚寺を大いに再興されたのでした。
洪川老師が、在家のために門戸を開いたおかげで、山岡鉄舟や鳥尾得庵なども洪川老師に参禅し、最晩年の頃には、まだ若い鈴木大拙先生も参禅されています。
そして、洪川老師のもとから、釈宗演老師が出られて、禅が世界へと弘まっていったのでした。
危難の時代を乗り越えたのは、洪川老師が禅の修行で鍛え上げられた「浩然の気」であります。
横田南嶺