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臨済宗大本山 円覚寺

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2021.12.04
今日の言葉

らしく生きる

居士という言葉があります。

『広辞苑』には、

「学徳が高くて仕官しない人。隠者。処士。」と説明があります。

仏教語として、もとは家主という意味の梵語で、資産家の家長を指したのですが、「在家で仏道の修行をする男子すなわち優婆塞の敬称。近世は在家の禅の修行者の敬称。」であります。

それから「男子の戒名の下に付ける語」という解説があります。

一般には、男子の戒名の下に付ける語として知られていますが、在家の禅の修行者を「居士」といいます。

『禅学大辞典』には、詳しく書かれています。

「佛道を修行する在家人の男子」であり、四つの徳を具えると説明されています。
「仕官を求めない。寡欲にして徳をつつむ。財に居して大いに富む。道を守って自ら悟るという四つであります。

「居士禅」という言い方もあって、それは「在俗の身で、深く禅を信奉し出家の精神に徹して衆生済度に精進し、また積極的に護法活動を行ずる在家禅のこと。」と解説されています。

もともと在家の信者というのは、「もっぱら比丘・比丘尼を信じてそれを外護するものであった」のでした。

それが「のち大乗佛教の発展は、自未得度先度他の菩薩思想を背景とし、在俗のままで如実に佛道を修行せんとする勇猛な修行者としての居士・大姉の輩出をもたらした」というのであります。

そして更に『禅学大辞典』には、

「このような考えの淵源は『維摩経』の思想に基づくもので、唐代、馬祖道一に参じた龐居士などはその好例である。

中国の居士は、佛教教理あるいは禅に対して深い素養と理解を持ちつつも、儒教を捨てることはなく、また老荘思想に対しても無理解ではなかった。」

と説かれています。

維摩居士というのが、その一番の良い例であります。

在俗の暮らしをしながらも深く仏道を体得していたのです。

「道法を捨てず、しかも凡夫の事を現じる」というのであります。

それから中国にあっては龐居士がよく知られています。

日本で居士というと誰だろうかと考えますと、『禅学大辞典』には、

近代の大内青巒や鈴木貞太郎の名前が挙げられています。

大内青巒も優れた仏教者でありました。

鈴木貞太郎は、かの高名な大拙居士であります。

大拙居士は、円覚寺の今北洪川老師、釈宗演老師に参禅して、深い悟境を得て、その上で渡米して海外で禅や仏教、東洋思想を大いに広められたのでした。

欧米の方に与えた影響は実に大きなものがありますが、居士としても優れた方であります。

鎌倉では、近世以降居士禅が盛んであります。

これはひとえに今北洪川老師が、居士の方の為に門戸を開き、またご自身東京に出向いて提唱をなされるなど、教化活動に熱心であったおかげであります。

それから、やはり山岡鉄舟も居士としては、日本を代表する存在だと思っています。
在家の身でありながら、鉄舟居士は、長徳寺の願翁和尚、龍沢寺の星定老師、天龍寺の滴水老師、円覚寺の洪川老師などに歴参して、滴水老師から印可も受けられた方であります。

書物によれば、鉄舟居士は龍沢寺の星定老師のもとに三年ばかり通って、「よし」と認められたのですが、ご自身は納得がいかなかったようでありました。

江戸に帰ろうと箱根まで来ると、目の前に富士山が秀麗な姿を現したのを見て、途端に悟るところがありました。

鉄舟居士は、龍沢寺にもどって星定老師の室内に再参されたのでありました。

その時に、詠じたのが、

晴れてよし 曇りてもよし 富士の山
 もとの姿はかわらざりけり

という和歌であります。

後に鉄舟居士は、四十五歳のとき大悟されました。明治十三年のことであります。

その頃に無刀流を開いたと言われてます。

その頃から鉄舟居士は出家の道を願ったようであります。

参禅の師である滴水老師もその鉄舟居士の志に賛同していました。

それに対して、円覚寺の今北洪川老師は、強い反対の意を表した書簡を鉄舟居士に送っています。

『蒼龍廣録』にある長い漢文のものであります。

鈴木大拙先生の書かれた『今北洪川』という本には一部訳文が載っています。

「山岡鉄舟居士は、かつて余が室に入って参禅した。孜孜精励、その猷進を見てすこぶる野情にかなった次第である。」

と書かれていますので、洪川老師にも参禅して、その心境を高く評価されていたことが分かります。

しかし、その出家には強く反対されたのでした。

鉄舟居士に与えた漢詩の訳文が、『今北洪川』のなかに出ていますので参照します。

「木の実を食べ草の衣を着るような出家の禁欲生活はまだ本当の道ではない。政治家として君に仕え国家に尽くす中に道がある。
その道はもっと大きく遙かなものだ。幸いに唐朝に学ぶべき賢人の行迹がある。かの顔真卿と同じように王事に尽くして頂きたい。」

という内容です。

居士は居士としての本分を尽くすべきだというのであります。

洪川老師の説得によるものか、そのほかにも事情があったのか定かではありませんが、鉄舟居士は、出家することなく居士として生涯を全うされました。

『最後のサムライ 山岡鉄舟』に興味深い話があります。

「とある古参の居士が、ある時鐵舟に臨済録の提唱を求めた。鐵舟は「それは鎌倉の洪川和尚に就いて聞くのがよいでしょう」と言う。その居士は「いや、洪川老師の提唱は以前に伺っていますが、最近先生が滴水老師の印可を受けられたと承ったので、このたびは先生の御提唱をぜひ一度伺いたいのです」と言う。
鐵舟は「そうですか、わかりました。では、やりましょう」と言いつつ立ち上がってその居士を剣術の道場に誘い、門人とひとしきり剣の稽古をすると元の部屋に戻って、「わたしの臨済録の提唱はどうでしたか」と問うた。その居士は呆然として黙ったままである。
そこで鐵舟は声を強めて、「わたしは剣客だから剣道で臨済録の提唱をしたのだ。これがわたしの本分である。わたしは決して僧侶の真似などはいたさぬ。人真似はすべて死んだものである。
たとえ碁や将棋であっても、それを自分自身に生かすのであればまことに有益だが、禅といっても死んだものとなっては、結局のところ道楽仕事に過ぎない。あなたは長年禅をやっておられると聞くが、臨済録を書物とばかり思っていては困りますね」と言い、一笑をもって話を終えた。
その居士は深く反省して帰っていったという。」

という話であります。

鉄舟居士の居士としても面目躍如たるものがあります。

それぞれがその本分を全うして「らしく生きる」ことにこそ生きた禅があります。

 
横田南嶺

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