ひとつの塵のなかにも
『碧巌録』の第五十則に出てくる言葉です。
塵というのは、仏教語として使われるといろんな意味があります。
まず第一には、物質を構成する最小の単位です。
それから、心を汚す塵・垢として煩悩の意味でも用いられます。
それから、また、執着の対象となって煩悩を引き起こす外的な汚れとして、感官の対象の意味で使われることもあります。
私たちの感覚が六根といって、六つあります。
眼耳鼻舌身意の六根です。
それぞれに対象があって、色声香味触法というのが六つの対象、六境といいます。
この六境を六塵とも言うのです。
微塵は、最も微細なもので、これ以上分割できない最小の実体であって、原子に近いものです。
更に極微という小さい単位があって、上下および四方の隣接する極微とともに七極微が集合すれば微塵となります。
さて、塵塵三昧というのは、どういう意味かというと、
『禅学大辞典』によれば、
「微塵の中に宇宙一切を摂入せしめる三昧」と解説されています。
もっとも小さなものの中に宇宙の一切が入るというのですから、いきなりそう言われても分かりにくいものです。
よく「山より大きいイノシシはいない」と言われますが、これならば常識で十分に理解できます。
しかし、禅では、一度その常識や思い込みを捨てさせために、いろんな表現を致します。
分別や常識、思い込みにとらわれていては、大切な真理が見えないからです。
こんな禅問答があります。
「李渤」という学者が、唐代の禅僧帰宗禅師を訪ねました。
李渤は、「李万巻」とあだ名されるほど、万巻の書物を読破したことで知られていました。
そんな李渤が、帰宗禅師に「自分は万巻の書物を読んできたが、禅の言葉は納得できない。『毛、巨海を呑み、芥に須弥を納れる』とはいったい何を言っているのか」と問われました。
「一本の細い毛が大海をのみこみ、小さな芥子粒にも巨大な須弥山という山が納まるというものです。
常識では考えられないことです。
すると帰宗禅師は、悠然と「あなたは、万巻の書物を読まれたことで名高いが本当ですか」と問いました。
李渤は「その通り」と答えます。
帰宗禅師はそこで、「椰子の実ほどの頭の中に、どうして万巻の書物が納まるのですか」と言われました。
ベトナムの禅僧ティクナットハン師が、
「もしあなたが一人の詩人だったら、一枚の紙に雲を見るだろう。
雲がなかったら雨は降らないから。雨が降らなかったら、木は育たず紙はできないから。」
と言われたことは、よく知られています。
たった一枚の紙も、雲があり、雨となって大地を潤して木を育て、その木を伐って紙に製造してできるのです。
製紙工場の人も、製造した紙を運ぶ人も、売る人もいて、数え切れないものが関わりあって一枚の紙となっています。
またティクナットハン師は、
「もしあなたが一人の詩人だったら、一杯のご飯やお惣菜の上に、太陽や雲を見るだろう。太陽や雲がなかったら光も温度も雨もないから。」とも語っておられます。
司馬遼太郎さんは『十六の話』という本のなかで華厳の教えについて書かれています。
「華厳思想にあっては、一切の現象は孤立しない。
孤立せる現象など、この宇宙に存在しないという。
一切の現象は相互に相対的に依存しあう関係にあるとするのである。
華厳の用語でいえば、重々無尽ということであり、たがいにかかわりあい、交錯しあい、無限に連続し、往復し、かさなりあって、その無限の微小・巨大といった運動をつづけ、さらには際限もなくあらたな関係をうみつづけている。大は宇宙から小は細胞の内部までそうであり、そのような無数の関係運動体の総和を華厳にあっては″世界″というらしい。
その世界が、唯心的に、つまり浄められ高められた心で観じられ、巨大な光明として絶対肯定されるときにこそ真理の世界(法界)がうまれるというのが、華厳思想なのである。」
と重々無尽の縁起を説かれています。
更に具体的に、例を出して、
「沙漠は、一粒ずつの砂でできあがっている。その一粒の砂の中にも。生成されたいきさつがあり、またそれが構成されている成分がある。
その一粒の砂の内部からたとえばタクラマカン沙漠そのものを感ずることができるし、さらには、宇宙までがその一粒の中に入りこんでいることを知覚することができる。
ときにその砂に崑崙の水が加わると、植物をそだてさせる。さらにはその植物を人や家畜がたべるといったぐあいに、因縁が構成され、それが縁起をおこし、さらに他の因果を生む。重々無尽、事々無礙。精妙にしてやむことがない。」
というものです。
お釈迦様は、悟りを開いて「宇宙は塵だ」と見たのでした。
塵の集まりがこの世界であり、宇宙なのです。
そして、「その一つ一つの塵の中に無限の宇宙が存在している」のです。
それが華厳の教えであります。
こんな和歌があります。
かたじけな ひとつの塵の中にだも
よもの仏の こもらぬはなし
この歌は、たった一つの塵の中に大宇宙の仏様がこもっていることを表現しています。
山本玄峰老師は掃き掃除の時に「たとえ、塵、ほこりでも丁寧に扱え」とご指導されたそうです。
たとえ、今塵やほこりであっても、もとをたどれば、私たちの衣服などであったのだから、丁寧に大事に扱えということです。
もっといえば、その塵、ほこりにも十方の仏さまがこもっているということです。
ほんのひとつの塵の中でも大千世界の御仏がこもっています。
塵塵三昧とは何かと問われて、雲門禅師は、「鉢裏飯、桶裏水」とお答えになっています。
ご飯の器にはご飯があり、水の桶には水があるということです。
水道のない昔は、水を汲んで桶や甕にいれておいたのでした。
一粒のお米、一杯の水にも大宇宙があり、十方の仏様がこもっている、そんな思いで丁寧に扱い、感謝していただくことであります。
横田南嶺