智慧の剣で何を切るのか
『碧巌録』の最後、第百則にあることばです。
僧が、巴陵禅師に、「如何なるか是れ吹毛剣」と質問しました。
それに対する巴陵禅師の答えであります。
「吹毛の剣」とは、『広辞苑』にも出ている言葉です。
「(吹きつける毛を切るほどするどい意から)よく切れる剣」という意味です。
固いものを切るのも大変ですが、やわらかいものを切るのも大変であります。
熟したトマトをスッと切るには、よく切れる包丁でないと無理です。
フッと吹き付けた毛が、スパッと切れるというのですから、実によく切れる剣のことであります。
仏教では、智慧を剣に喩えます。
智慧の剣で、智剣とも申します。
智剣もまた『広辞苑』に載っていまして、「智慧の剣」と説明されています。
では「智慧の剣」を調べると、
「智慧がよく煩悩を断ち、生死の絆を断つことを鋭利な剣にたとえていう語。智慧の利剣。」
と説明されています。
文殊菩薩が、宝剣をもっていますが、あれが智慧の剣でありましょう。
『広辞苑』には、「煩悩を断ち、生死の絆を断つ」と書かれていますが、何を断ち切るのでしょうか。
僧堂の修行僧達と、この問題について話し合いました。
智慧の剣で断つのは何かということについてです。
執着を断つという答えがありました。
執着を断ち切れればいいのですが、どうでしょうか、難しいのではないかと私は申し上げました。
無知を断ち切るという答えもありました。
これは、かなり深く仏教を学んでいることがよく分かる答えです。
確かに苦しみの根源は、無知であり愚かさであります。
これを仏教では「無明」といいました。
この根本の「無明」を断ち切れればいうことはありません。
私たちは、何も知らない状態で生まれてきました。
根本無明です。全くなにも分からない状態でありました。
そこに、意識が生じてきました。
意識が生じて、自分と自分以外のものを分けるようになりました。
自他を分けてものを見たり考えたりするようになりました。
その自分というものに、名前を付けてもらって、名前を呼ばれます。
その名前が自分というものだと認識します。
他人と異なる自分があるのだと認めます。
そこから、自分への執着が強くなります。
持ち物にも名前を書くように指示されて、ひとつひとつ自分のものだという思いが生まれます。
そして自分にとって心地よいものをもっと欲しがります。
いやなものを退けようとします。
大きくなってますますその思いが強くなってきます。
好きなものにはいっそう愛着を覚えます。
何とか自分のものにしたい、手放したくないと思うのです。
その思いが渇愛となります。喉が渇いてしかたないように、求めるのです。
ところが、世の中は一切が皆思うようにはなりません。
すべてが自分の思いのままに手にすることはできません。
自分のものにしようとした、そのものもまた移り変わり変化してしまいます。
そうして思うようにいかないので苦しみを生じるのであります。
明治以降、お坊さんも結婚をする方が増えました。
当然お寺に生まれる子もいます。
更にこの頃の修行道場には、お寺のお子さんだけではなく、お寺のお嬢様のお婿さんも修行にくる場合があります。
私のところの僧堂でも何人もそういう修行僧が来ていました。
彼らにとって家族はかけがえのないものです。
結婚して家族を持つことは、もともとの仏教の教えでは、欲望であり執着なのですが、今日では決して悪い事ではありません。
お寺のお嬢様と一緒になりたいという一心で、出家して修行道場に来るのですから、その愛の深さには敬服します。
そんな者に、愛する者への執着を断ち切れということは難しいでしょう。
そうかといって、根本の無明を切るというのは、まず無明自体を見ることが難しいのです。
無知だけに気づきにくいのです。
そこで禅の修行では、自他を分ける思いを切ることに目をつけます。
大自然と一体になるという体験をすると、自他が一如であると気がつきやすいのです。
大自然と一体であるということは、自我を否定することになるのです。
自分の呼吸と外を吹く風がひとつに溶け合ってゆくという体験をするのであります。
自他一如を体験することによって、自我を否定する、自我を切るということになります。
そのようにして我執を断ち切ったならば、巴陵禅師が説かれた「珊瑚枝枝月を撐著す」という世界が開かれます。
撐著の「撐」という字はあまり使わないのですが、ささえるという意味があります。
この言葉を岩波書店の『現代語訳 碧巌録』には、
「珊瑚の枝ごとに月をささえている」と訳しています。
どういうことかというと、同書の註釈に「珊瑚の枝の先ごとが月光に照らされ明るく輝いている」と説明されています。
「光りが互いに写しあい礙げのない様子」というのです。
そういう世界を坂村真民先生は詩で歌いました。
すべては光る
光る
光る
すべては
光る
光らないものは
ひとつとしてない
みずから
光らないものは
他から
光を受けて
光る
こういう智慧の眼が開けることが禅の修行で目指すところなのです。
愛する者への執着を断てというのは、困難なのですが、自分の愛する者だけではなくて、草も木も、どの子もどの人も、みんな光っているのだと智慧の眼で見ることが大切なのです。
そうするとその智慧は、慈悲となってあらわれてきます。
横田南嶺