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臨済宗大本山 円覚寺

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2021.11.25
今日の言葉

何の為に坐禅するのか

臨済宗で読む『坐禅儀』という書物があります。

『禅宗四部録』の中にある一冊です。

その『坐禅儀』の冒頭に、

「夫れ般若を学ぶ菩薩は、先ず当に大悲心を起こし、弘誓の願を発し、精く三昧を修し、誓って衆生を度し、一身のために独り解脱を求めざるべきのみ。」

と書かれています。

短い文章ですが、この中に、「般若」「菩薩」「大悲心」「弘誓」「三昧」「解脱」という難しい仏教用語が含まれています。

出だしの「夫れ」は、文の始まりをしめします。

般若は智慧のことです。梵語のプラジュニャー、パーリ語のパンニャーを音写したものです。

智慧の意味ですから、智慧と訳せばいいのにと思うかも知れませんが、単なる智慧ではなく、悟りの智慧ですから、智慧とせずに般若と訳したのです。

単なる智慧ではなく、直観的・直証的な智慧のことを言います。

お釈迦様が説かれた初期の仏教では、諸行無常・一切皆苦・諸法無我などの真理を見抜く智慧として大切にされています。

のちに大乗仏教になると、菩薩の修行徳目である六波羅蜜の最後に、智慧波羅蜜として説かれています。

「菩薩」はもとは、悟りを求める人という意味でした。

お釈迦様が悟りを求めて修行していた頃を菩薩と言いました。

後に仏教では、菩薩となって悟りを求めるのは、お釈迦様だけであって、その他のものは、阿羅漢を目指すのだと説かれるようになりました。

さらに大乗仏教では、だれでも悟りを求め、自らの解脱と人を救済することを求める者を皆菩薩と呼ぶようになりました。

さらに、観音菩薩や地蔵菩薩のように、仏の位にとどまらずに、この世界において人を救済してゆく菩薩が説かれるようになりました。

そこで、「般若を学ぶ菩薩は」というところは、「智慧を学んで悟りを求めようとする者は」、ということになります。

次に、「先ず当に大悲心を起こし」とありますが、大悲心とは何でしょうか?

大悲というのは、慈悲の悲のことを指します。

慈悲とは、慈と悲のことです。

慈悲の「慈」は、梵語のミトラ(友)から派生した「友愛」の意味をもつ語で、他者に利益や安楽を与えること、即ち与楽と説明されます。

一方、「悲」は他者の苦に同情し、これを抜済しようとする思いやりを表し、抜苦と言います。

「大悲」は仏の衆生に対するいつくしみのことです。

さらに、菩薩は他者に代ってその苦を引き受けるとされ、「大悲代受苦」が説かれます。

また「大悲闡提」といって、大悲をもって衆生を済度するため、敢えて涅槃に入らないという教えもあります。

闡提というのは、成仏できない者のことを言いますが、大悲闡提というのは、悪い意味ではなく、菩薩が衆生を救おうとする慈悲心によって、願を起して涅槃に入らず悪道にとどまっているものを言います。

白隠禅師などもこの精神でした。

ですから、坐禅しようと思う者は、まず人を救ってゆこうという心を起こしなさいということなのです。

弘誓の願というのは、広大な誓願のことです。

菩薩が悟りを求め衆生を救おうと誓うことを言います。

すべての菩薩に共通した誓願を総願と言いますが、四弘誓願はその代表的なものです。

「三昧」は「正受」とも訳されて、「心を静めて一つの対象に集中し心を散らさず乱さぬ状態、あるいはその状態にいたる修練。」を言います。

「解脱」は、束縛から解き放す意で、仏教では煩悩から解放されて自由な心境となることを言います。

そこで、この『坐禅儀』の冒頭の部分を訳しますと、

「そもそも聖なる智慧を学ぼうとする修行者は、まずどうしても大慈悲の心を起こし、遠大な誓いをたてて、熱心に禅定を修め、迷いの衆生を救うことを誓うべきで、我が身のためにだけの悟りを求めてはならない。」

ということであります。

自分だけが迷いの世界から逃れてよしとするのではありません。

譬でよく話をします。

夏になると海に泳ぎにゆく人たちが大勢います。

動機はさまざまでしょう。

休みの日に、楽しもう、息抜きをしよう、親睦を深めようなどいろいろあることでしょう。

しかし、海に行って、ライフセーバーになる人もいます。

その人たちは、自分が楽しむ為ではありません。

海で溺れている人を救うために、海に入るのです。

溺れている人を救うには、そうとうの力量と見識が必要です。

そのように、臨済の坐禅を行うのは、自分一人安らかになろうというのではないのです。

自分だけの解脱を求めないのであります。

苦しんでいる人を救ってあげたいと願って、自己を制御してゆくのです。

マインドフルネスをして、自分が苦しみから逃れてそれでよしとするのではないのです。

体力、気力もたくわえて、苦悩している人を救おうと思って坐禅するのです。

自分だけ救われればいいというのなら、こんな楽なことはありません。

溺れる人を救おうとするには、相当の力と経験が必要でしょう。

そうでないと、共に悲しむといっておいて、悲しみに呑まれて一緒に溺れてしまってはどうにもなりません。

この自分を含めて一切の人を救うんだという気概で坐ると、自分自身の小さな悩みなど気にならなくなるものです。

 
横田南嶺

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