『新・坐禅のすすめ』出版されました
私にとっては実に待望の一冊であります。
もともと禅文化研究所からは、『坐禅のすすめ』という本が出ていました。
山田無文老師や、大森曹玄老師、平田精耕老師といった錚々たる老師方によって書かれた名著でありました。
それがもはや入手困難になっていたので、このたび新版を作ることになったのであります。
巻頭には、京都八幡の円福寺僧堂師家の政道徳門老師による『坐禅儀』を読むという講義があります。
その次には、平林寺師家の松竹寛山老師による「実習 白隠の内観法」であります。
その次が、佐々木奘堂師と私との対談「坐禅で腰を立てるとは」が載っています。
最後に駒澤大学の舘隆志先生による「文献に見る坐禅の変遷」という一章であります。
巻末に用語解説と坐禅会の常用経典が載っています。
なんといっても私が深く感銘を受けたのが、円福寺の政道老師の坐禅儀講話なのであります。
これはかつて季刊『禅文化』に掲載されたものを、この度老師が加筆してくださったのです。
二〇一八年の『禅文化』に掲載されたこの玉稿を拝読して、私はこれほどまでに深く坐禅のことを探求なさっていることに驚きました。
たとえば、呼吸にしても、私たちは、数息観として、意識的に長く息を吐きながら、お腹に力を込めて、「ひとー」と吐いて、「つー」と軽く短く吸います。また長く吐きながら、お腹に力を込めて「ふたー」と吐いて、「つー」と短く吸います。
これをくり返すように習ったものです。
しかし、政道老師は
「数息観、特に随息観は「出入の息に任せる」というところがポイントですから、この時点で「呼吸を調えよう」とか「大きく吸おう」とか「長く吐こう」等、呼吸に対して計らうことを一切やめてしまいます。
そうすると実際の呼吸には、長短、粗細、深浅、実に様々なものが存在することに気付きます。
そういった次から次へとやって来ては去って行く「千姿万態の呼吸」に対して心を開いて、「一息」また「一息」……と丁寧に観察していきます。呼吸に身と心を任せてしまうのがポイントです。」
と説かれています。
「この「出入の息に任せる」数息観、随息観では「吸う方」からスタートします。
まずは吸う息に対して心を開き、自然に息が入っていく様子全体を鼻の穴の前でじっくりと観ていきます。
今度吐く息が始まったら、自然に息が出て行く様子全体をじっくりと観ていきます。
吸う息と吐く息の全体を見届けたら、心の中で「一」と数を置いていきます。
そのようにして、吸って吐いて「一」、吸って吐いて「二」、十まで数えたら、また一から始めます。
もし数を間違ったり忘れたりした時は、必ず妄想が生じていたり昏沈睡眠の状態にいるので、改めて一から始めます。
これを淡々と何回も繰り返します。
この時、妄想を嫌い、妄想と葛藤しないよう注意します。たとえ何が思い浮かぼうとも、それに対して善悪の判断をせず、気付いたら淡々と手放していきます(再び呼吸を観ることに戻る)。」
というように、説かれていて、まず「吸う」から始めること、吸う息吐く息を見届けたら「一」と数を置くなどという、驚く方法が書かれていたのでした。
これは、どういう修行をなさった方なのだろうと思いました。
また「歩行禅」ということも説かれていました。
「坐禅の間に歩行禅を取り入れることで、実際に「動静間なく」正念を相続する感覚を学んでいきます。歩行禅にも色々な方法がありますが、一つの方法として「呼吸にも心を置いたまま、その出入に合わせてゆっくり一歩一歩足を進めていく」方法があります。
すなわち吸う息に合わせて足を上げ、吐く息に合わせて足を降ろしていきます。
これは臨済宗の「速く歩く経行」は勿論、曹洞宗の「一息半歩の経行」と比べても、取り組む感覚が少し違います。
日々歩行禅を修習することで、実際に作務など「動中の工夫」のための下地を作ることができます。歩行禅に慣れてきたら、普通の速度で歩いている時、箒を持っている時、食事の時……と少しずつ工夫する範囲を広げていきます。またその際、呼吸に心を置いている時とそうでない時にどういう違いがあるかを学んでいきます。」というのであります。
私たちの臨済宗では、タッタとすばやく歩く経行しかしてこなかったので、これはどういうことなのか、実際に教わってみたいと思ったのでした。
そうして、何とかこの老師にお目にかかりたいと思って手紙を書いたのでした。
その後、とある空港でばったり老師にお目にかかる偶然の機会にも恵まれて、私は、八幡市の円福寺に行って、直接老師に、数息観のやり方や歩行禅などを教わったのでした。
自分が教わるだけではだめだと思って、政道老師に円覚寺までお越しいただいて修行僧達にも直接歩行禅のご指導をいただいたのでした。
また老師は、この本の冒頭で、私たちが公案禅として、「趙州の無字」や「隻手音声」の工夫をすることに対して、
「語言三昧といえども力業で同じ言句に繰り返し参じていくうちに、自分を催眠にかけ、まるで一定のリズム・一定の型に自分をはめてしまうことだけがあたかも修行であるかのような間違いに陥ることがあります。
特に坐禅中においてそういう間違いが起こりやすい。祖師方が型を作るということはありません。作るとしたら、それは自分なのです。」
と、その弊害を見事に指摘されています。
また、終わりには、
「「私は無字を体得した」「初関を透った」ということは今までも無かったし、これからもあり得ない。
生まれてから今まで一つとして同じ呼吸が無いように、「無字」はいつも新鮮で、参じる度に「新しい世界」が現前しているのを目の当たりにするはずです。
そこに「決まった型」のようなものは一つもありません。
そもそも「決まった型」を破壊するための公案なのです。」
という一言には、身震いするほどの感動を覚えました。
恐れながら、「我が意を得たり」の思いでありました。
「見性」ということも同じであります。「見性した」といって誇るようなものではないはずなのです。
常に、毎日毎日、一瞬一瞬「見性」です。本性が厳然としてたちあらわれているのです。その事実に触れるのみです。
かつて季刊『禅文化』に掲載された政道老師の玉稿を何とかひろく読めるようにしたいと思って、何度か禅文化研究所やご本人にお願いしてきたのですが、政道老師は徳門というお名前の徳の方なので、ご自身深くご遠慮されてきました。
何でも頼まれればすぐに引き受ける私などとは大違いのお方なのです。
それが、この度ようやく出版されることになったのでした。
私にとっても感慨無量なのです。
『新 坐禅のすすめ』は、「坐禅経験者にこそ薦める」と題に書かれていて、更にオビには「敢えて、初心者でないあなたに」と銘打っていますが、初めての人がお読みになっても大いに参考になります。
私などもはじめから、この円福寺の政道老師の指導される方法で坐禅や歩行禅をやっていれば、どれだけよかったであろうかと思います。
いや今からでも円福寺に行って、老師のご指導を受けたいと思うのであります。
ともあれ、この『新 坐禅のすすめ』にある政道老師の坐禅儀講義は、禅宗史に残る名講義、名提唱だと思っていますので、是非ともお勧めするところです。
平林寺の老師の内観の法の講義もとても分かりやすく実習しやすく解説されていますので、坐禅をなさる方、してみたいと思う方にはお勧めの一冊であります。
横田南嶺