無意識の偏見 – 椅子でもいいです –
池上彰さんとの対談記事でありました。
拝読すると、池上さんは、初めて五木先生に会ったとのことでした。
私は、有り難いことに、これまで三回も対談させてもらいました。
三年ほど前に、月間『致知』の企画で、対談をさせてもらったのでした。
私もいろんな方と対談してきましたが、五木先生ほどの著名な方とは初めてだったので、対談の前にはとても緊張したことを覚えています。
また作家の先生というのは、何か難しい方のような偏見ももっていて、なおさら対談がどうなるのか心配になったのでした。
それがどういう訳か、話がはずんで、なんと一冊の本にしようということになって、二回目の対談をさせてもらったのでした。
もうそれで十分本としての原稿はできあがっていたのですが、五木先生から、もう一回対談して更に内容を深めたいというご意向で、何と思いがけなく三回も対談させてもらって本になったのでした。
五木先生も三回も対談するのは珍しいと何かに書かれていました。
それが、『命の限り歩き続ける』という本でありました。
もっとも、池上さんほどの方になれば、五木先生に会うにも緊張などもなかったであろうと察します。
池上さんが、コロナ禍で生活がどのように変わりましたかと聞かれて、五木先生は、生活がすっかり変わったと答えていました。
記事には、
「夜型だった60年来の生活ががらりと変わって、今は朝7時半に起きて、夜は0時には寝ています。」
というのであります。
私が対談させていただいた頃の五木先生は、なんでも朝日を浴びてから床に入って眠り、夕方になって起きられるというのでした。
私が午前三時に起きる生活なのに対して、五木先生は午後三時に起きるというので、全く正反対でありました。
ですから、対談の日取りも時間も決めるのに苦労したのでした。
こちらは朝が早いし、修行道場にいますので、夕方から基本は坐禅の時間になってしまいます。
できれば午前中か午後の早い時間にしてもらいたいところですが、いくら早くしても五木先生は午後五時が精いっぱいだというのでした。
そこで夕刻の五時に都内のホテルに出向いたのでした。
池上さんが、記事の中で
「対談場所にふらりと姿を見せた五木さんの若々しいことといったら。」
と書かれていましたが、私と対談の折にもそのような感じでありました。
池上さんが、五木先生のことを
「病院に行くことがないという話を聞いたことがあったのですが、その理由が今回初めてわかりました。」
と書かれていますように、私もまた、対談して初めて病院に行かない理由を知って驚いたのでした。
記事の中にも手短に
「引き揚げの時、母親に注射一本、飲み薬一服を与えられずに見殺しにしてしまった。そんな人間がどうして近代医学の治療など受けられるのかという潜在意識が多分あったのでしょう。」
と書かれていますが、病院にも行けずに亡くなった母親のことを思ってのことだと知ったのでした。
悲しい話でありました。
私は、この話に五木先生の真のお姿を見た気がしたものでした。
それから、無意識の偏見という「アンコンシャスバイアス」について語られていました。
特にジェンダーについて五木先生は、理解しているつもりでも、
「心の中でバイアスがかかってしまい、悪い状態から抜け出せない骨がらみになっている」と自分自身を冷静に見つめて語っておられます。
池上さんは、「そこに気づかれただけでも素晴らしいのではないでしょうか」と言っています。
無意識の偏見ということで、先日私自身も思い当たることがありました。
とある企業に招かれて講演をさせてもらい、講演のあとで、その企業の社長と懇談させてもらいました。
大企業の経営者ながら、禅にも関心が深くて、ご自身も学生時代に坐禅をなさっていたと仰っていました。
しかし、ただ今七十代になって、膝もよくないので、もう坐禅しようにも足が組めないと仰せになりました。
すかさず私が、「椅子でもいいですよ。うちの寺では椅子も用意しています。」と申し上げました。
するとその社長が、「椅子でもいい」というのが、椅子で坐る人には劣等感を与えてしまうので、問題なのだと言われました。
足を組んで坐っている人がよくで、椅子で坐っている人は、優劣を付けられているように感じてしまうというのです。
たしかに修行の世界では、結跏趺坐という両方の足の甲を反対側の足の腿の上にのせて坐る方法が一番よいと思われて、それができない者は、半跏趺坐でもよいと言われています。
半跏趺坐もできなければ、あぐらをかくか、椅子に坐るかというところです。
気がつかないうちに、そこに優劣があるように感じられます。
結跏趺坐は、両方の腿を足の甲で押さえますので、下半身がしっかりとして安定感があります。
半跏趺坐よりも安定するのです。
椅子は、足を支えるものがないので、不安定です。不安定のままで坐るのですから、いろんな筋肉も必要ですし、困難な坐り方であります。
しかし、あくまでも坐法の相異に過ぎません。
本質的にはどの坐法も変わりはないはずです。
それなのに、わざわざ椅子を用意してもらって坐るという負い目を感じながら坐らせてしまうのであります。
「椅子でもいいです」という言葉にすでに無意識の偏見があったのだと気がつかされました。
さてこの問題はどうしたらよいのかと考えました。
いっそのこと、みんな椅子で坐ったらいいという考えもあります。
しかし、中には足を組んで坐りたいという人もいるでしょう。
それでは、椅子の上で足も組めるような椅子を作ったらどうかなどと思いました。
そうすれば、椅子でいい人は椅子に腰掛け、坐を組みたい人は、椅子の上で坐を組むのです。
それはいいと思うのですが、そんな椅子を作るのもたいへんであります。
はてさてどうしたらいいいものやら。
横田南嶺