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臨済宗大本山 円覚寺

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2021.11.20
今日の言葉

馬糞と牛糞と

あらかじめ申し上げますが、お食事中やお食事前の方は、この話をお読みになることは避けた方がよろしいかと思います。

お読みになるのでしたら、あまりきれいな話ではありませんのでご覚悟を持ってお読みください。

知人から『広重の浮世絵で地形で読み解く 江戸の秘密』という本を御恵送いただきました。

江戸の暮らしには興味があるので、有り難く拝読しています。

馬糞の話に興味を覚えました。

安藤広重が、「四ッ谷内藤新宿」という画には、大きな馬のお尻が画かれていて、その足元にはいくつかの塊が画かれています。

それは馬糞であります。

同書には、

「荷物輸送用として、江戸市中には牛馬が闊歩していました。牛馬が歩けば、彼らが落とす糞も町中に溢れます。

けれど当時の江戸には、この馬糞を、自主的に拾う人々がいました。

それは子供たちでした。子供たちはアルバイトで馬糞を集めていたのです。

何のために馬糞を集めるのかと言えば、それは「燃料」にするためでした。

牛馬は藁や草を主食にしています。

ですから糞には、藁や草がたくさん含まれていて、よく燃えたのです。

落ちている馬糞を集めては、それらを乾かして燃料として販売する業者もいたのです。」

ということなのです。

更に「馬糞の燃費がどれくらいなのかというと、ある計算では、薪1キロを燃やすと3000キロカロリーの熱量が発生するのに対し、糞1キロでは、3690キロカロリーの熱量を生み出すそうです。

つまり馬糞は、燃料として、非常に有効なのです。」

と書かれています。

著者は「江戸時代、馬糞は再生可能エネルギーであり、リサイクル燃料でもあったわけです」と指摘されています 。

京都の僧堂に居た頃、畑の肥料にするために、馬糞をもらってきていたことを思い出しました。

汚いように思われるかもしれませんが、全然汚いとか臭いとか感じなかったものでした。

楽しい作務だったという思い出だけが残っています。

馬の糞のみならず、人の排泄物もみな肥料として生かしていたのでした。

実に江戸は循環型社会だったと言われる所以であります。

馬糞で思い出すのが牛糞の話であります。

こちらは『碧巌録』第三十四則の評唱に出てくる懶瓚和尚のはなしであります。

岩波書店の『現代語訳 碧巌録』にある訳文を引用させていただきます。

「懶瓚和尚は、衡山の石室に隠れ住んでいた。唐の粛宗皇帝はその名声を聞き、使いを遣わし御召しになった。

使者がその室に至り口上を述べた。

「天子の詔です。尊者は起立して御恩に御礼しなさい」。

懶瓚和尚は、ちょうど牛糞を燃やして、焼芋を探り出して食べていた。鼻水が顎まで流れたが答えなかった。

使者は笑って、「まあ尊者、鼻水を拭きなさい」。

懶瓚和尚「私にどうして俗人の為に鼻水を拭く暇があろうか」。

ついに立ち上がらなかった。使者はかえって報告を申し上げた。

粛宗はおおいにお誉めになられた。」

というものです。

牛糞で芋を焼いて、鼻水を垂らしながら食べている懶瓚和尚の姿が彷彿とします。

更に思い出したのが「乾屎橛」という言葉であります。

かつてこの「乾屎橛」は「くそかきべら」と訳されていました。

朝比奈宗源老師の『無門関提唱』にも、

「乾屎橛とは昔からクソカキベラと云っている。

中国で人が大便をしたあとで、尻をこすりつけて塵紙代用をする杭だと説明されているが、しっかりしたことは分らない。

要するに余りきれいでないもののことはたしかだ。

『いかなるかこれ仏』。『クソカキベラ 』。

普通、仏とは尊いもの、清浄なもの、拝まれるべきものと思っているのに、雲門はそれらの観念に遠い『クソカキベラ 』と答えたのだ。

しかしこれは、雲門が僧のもっている仏の概念をぶち砕くためにこう答えたのだなどと云ったら白雲万里だ。

そんな意味で云ったとしたら『いかなるかこれ仏』という問に対する禅者の答とはならない。

この答えが前にいうように直きに仏そのものであるのは、そうした思慮分別をさしはさんでいないからだ。

ただ『乾屎橛』である。きたない意味もなく、そしる意味もない。

この「たゞ」 が分らなくては禅者ではない。」

と説かれています。

入矢義高先生は、この「乾屎橛」はくそかきべらのことではなく、「乾いた棒状の糞」であることを明らかにされました。

入矢先生のご著書『自己と超越 禅・人・ことば』のなかに詳しく解説してくださっています。

入矢先生は、この「乾屎橛」の語が、玄沙の「膿滴滴地」(ウミがたらたら」と同じく、「究極なるもの・絶対なるものの定立を拒否する〈遮遣〉の立場を示す」と解説してくださっています。

禅の語録で使われる「乾屎橛」はまさにそのような意味なのですが、肥料や燃料にしていた江戸の馬糞の話や、牛糞で芋を焼いて食べていた僧の話のあとに、「乾屎橛」という言葉をみると、なにかこれも貴重なものだったような気もしてしまいます。

それはそうと、かつては私たちの修行道場は循環型の社会だったのですが、今やそうでもなくなってしまっています。

私が修行し始めた昭和の終わり頃には、まだ汲み取りのトイレで、肥を汲んでは畑の肥料にしていました。

生ゴミなどもすべて畑に肥料になっていました。

紙くずは、お風呂の焚き付けにしたので、ほとんどゴミを出すことはなかったのでした。

しかし、今や空き缶、空き瓶のみならず、ビニールやプラスティックのゴミも出るようになりましたので、どうしてもゴミとして出さなければならなくなっています。

ゴミの問題は、これからの大きな課題であります。

 
横田南嶺

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