禅と尺八
なんという涼やか方だろう。
なんという軽やかな方だろう。
尺八演奏家の工藤煉山さんにお目にかかった印象であります。
Zen2.0という企画をなさっている方とのご縁で、工藤煉山さんと対談をさせていただきました。
今年のZen2.0の企画を動画で拝見させていただく機会を得ました。
そして、その中で特に印象に残った方と対談をしてみてはどうかというお話をいただいたのでした。
今年のZen2.0には、実に様々な分野の方が登壇なさっていました。
いろいろ拝見する中で、工藤さんの言葉が印象に残りました。
工藤さんは、尺八を吹くのにまず竹林に入って、竹を取るところから始めるのだそうです。
竹を取ろうと竹林に入ると、竹は工藤さんのことを拒むのだそうです。
竹にしてみれば、命を奪われるのですから、当然といえましょう。
しかし竹林が、自分を拒んでいると感じるというところがまずすばらしいのです。
私などは、春先に筍を取りに竹林に入っても、筍を取ることしか頭にありません。
竹の命を取る、いただくという思いがないと、尺八の呼吸ができないということを仰っていたのでした。
その言葉を聞いて、私はこの方は真剣に生きて道を求めている方だと直観しました。
呼吸というと、どうしても呼吸法という技術のことを思います。
私もその呼吸法についてはさんざん行ってきました。
その結果呼吸法という技術ではないという結論に到りました。
工藤さんは、竹の命をいただくというところから始まるのだというのです。
そうして、先日の十三日に工藤さんに円覚寺にお越しいただいて、尺八の演奏をしていただいて、更に対談をさせてもらったのでした。
控え室でお目にかかったときの印象が、冒頭の言葉です。
なんという澄んだ目をした方だろう。
なんという涼やか方だろう。
なんという軽やかな方だろう。
という印象だったのです。
芸術に生きる方というのはこういう風になるのかと思ったのでした。
会の始まりに、私がご本尊に般若心経を唱えました。
そのあとに工藤さんが尺八を献じてくださいました。
私はそのそばでじっと拝聴していました。
正直のところ、私は普段歌や音楽とは全く疎遠の暮らしをしていますので、高尚な音楽を聴いても分からないだろうと思っていました。
しかし、きっと演奏が終わって対談になると、尺八の演奏を聴いて如何でしたかと聞かれることでしょうし、どんな思いがしたのかいくらか言葉にしなければなりません。
そこではじめは、この音はどういう情景を歌っているのか、何を表現しているのか、小川のせせらぎであろうか、風のそよぐ音であろうかなど、なにかをとらえて言語化するようにという思いで聴いていました。
しかし、何か言語化してとらえようとすれば、そのたびごとに、音色はすっと別のところにすり抜けてしまいます。
また音をとらえようとすると、すっと抜けてしまいます。
そんなことを何度もくり返すうちに、もうなにもとらえようという思いも、言語化しようという作意もなくなってしまいました。
ただ工藤さんの尺八の音色と共に、ひろい世界を風のように漂っている感覚になってゆきました。
この大自然の中に体まるごと溶け込んだような至福の思いに浸っていると演奏が終わったのでした。
何か感想を考えようと、言葉にしようと思っていたのに、全く何もないカラッポのまま終わったのでした。
さて、これはこのあとの対談で何を言っていいのか困ったと思いましたが、ただ正直に言葉にしようとすればもう外れてしまうことだけを申し上げたのでした。
私が坐禅して、二時間も三時間も坐ってようやくたどりつくような静かな心境に、わずか二十分ほどの尺八の音色を聴くだけで到り得たのですから、やはり大したものだとつくづく感じ入りました。
工藤さんは、尺八の音色というのは、竹の葉が風にそよぐ音のようなものだということを仰っていましたが、工藤さんの語る言葉の一言一言が、風にそよぐようで、聴いているだけで心地よく、こちらの心が空っぽになってゆくのでありました。
私などは、対談しながらも、次にどのような話に展開して、あと何分だから、どのようなところに落として終わろうかなどと、あれこれ考えているのですが、今回はそんなはからいをせずに、ゆったりとくつろいで対談できました。
もっとも工藤さんは、三十代の頃に七年の間ご病気で尺八が吹けなかった時があったそうです。
演奏家としてはたいへんなことであります。
絶望も体験されたのでしょう。
そんな中から、体のこともしっかり学ばれて、アレクサンダーテクニークやロルフィングやヨガなども学ばれたということでした。
蝶形骨のゆるめ方や仙骨のゆるめ方など、私からお願いして実習してもらいました。
尺八というと、由良興国寺の開山法灯国師心地覚心禅師が日本に伝えたものです。
私は、この興国寺の老師に初めて参禅したのでした。
法灯国師は、味噌と醤油に尺八と無門関を日本に伝えた方であります。
私が中学や高校時代に興国寺に坐禅に行くと、尺八も勧められたものでした。
しかし、当時の私は、まだ禅の修行も始めたばかりなのに、尺八などやっていられないと思って、禅の修行が済んでからにしますと言って断っていたのでした。
今回も工藤さんから、尺八を吹いてみませんかと勧められましたが、私はまだ禅の修行がようやく入り口にたどりついたところだと思っていますので、今生の生きている間は無理でありますとお答えしたのでした。
それでもこうして工藤さんとご縁ができて、工藤さんのすばらしい尺八の音色を聴いておけば、今度生まれかわって来る時には、尺八とご縁が深まって、吹くこともできるのではないかと思っています。
今生の間は、尺八を吹くのではなく、こうしてホラを吹いて過ごそうと思います。
良き人とのめぐりあいは実に有り難いものであります。
横田南嶺