あえて地獄に落ちる
とある役人が、趙州和尚に、あなたのような立派な禅僧でも地獄に落ちることがありましょうかと聞きました。
趙州和尚は、私は真っ先に入ると答えました。
あなたのような立派に修行された方がどうして地獄に入るのでしょうかと聞くと、趙州和尚は、私が行かなければ、どうしてあなたに会えるでしょうかと答えました。
地獄に落ちたあなたを救う為に、私は真っ先に地獄に行くのだと答えられたのであります。
地獄というと白隠禅師を思い起こします。
白隠禅師と地獄との関係は深いものがあります。
「南無地獄大菩薩」という書を残されていることからもうかがわれます。
もっとも、「地獄大菩薩」というのは、地蔵菩薩のことを表しているそうなのです。
白隠禅師は、十歳の時に地獄の絵をご覧になって、その地獄の恐ろしさに子供ながらにおののきました。
地獄からどうしたら逃れることが出来るか、これが白隠禅師が道を求める一番のきっかけです。
地獄に気がついて、その地獄からどうしたら逃れることができるだろうかと真剣に道を求めて、あの偉大な白隠禅師となったのでした。
地獄こそは白隠禅師の師匠であったと言ってもいいでしょう。
自分は地獄に落ちるのではないかと、まず地獄に気づくことは難しいものです。
地獄から脱するために禅の道を求めて血のにじむような修行をなさって大悟されます。
大悟とは無我の道理に目覚めることにほかなりません。
二十四歳高田の英巖寺で悟り、さらに正受老人の元で大悟しました。
地獄もなければ極楽もない、苦しみも不安もない心鏡に達します。
しかしそれでよしというわけにはまいりません。
白隠禅師が四十二歳で法華経を読んでいたときにコオロギの声を聞いて悟ったと言われます。
何を悟ったのかというと、自分だけが悟ってヨシとしてはいけない、苦しんでいる人を救って行かなければ本当の悟りではない、悩み苦しみ人がいる限り、私の修行も終わらない、「衆生無辺誓願度」という願いに目覚めたのであります。
これこそまことの大悟です。
後に白隠禅師はお弟子の東嶺和尚と出家の動機について語り合います。
同じ地獄図を見ながらも、東嶺和尚は、地獄の衆生を救済する地蔵菩薩に憧れて出家したというのです。
そこで白隠禅師は東嶺和尚の出家の動機を「善く正受の意に称かなう」ものとして讃嘆したのでした。
地蔵菩薩はまさに地獄菩薩でもあるのです。
白隠禅師が生きた時代は江戸中期の平穏な時代ですが、百姓一揆などはけっこう起きています。
白隠禅師は六十歳半ばで姫路や岡山など西国に説法に行くのですが、その前の年に姫路百姓一揆という大きな一揆が起こっていて、首謀者たちは打ち首、磔、拷問になっています。
そういう悲惨な状況を見て静岡に帰ってきています。
白隠禅師が七十一歳の時に、駿河の小島にある龍津寺に招かれて『維摩経』を講義されました。
そのとき小島藩主の松平昌信公はまだ二十七歳の若さでしたが、このときの白隠禅師の説法を自ら聴きに来ていました。
この若い藩主はなかなか見所があると思って、白隠禅師は「他藩で百姓一揆が起こっているのは上に立つ者が贅沢をするからです。藩主は贅沢をしてはいけません。食べ物は一汁一菜、着るものは木綿にして、それをちゃんと下の者にまで徹底しなさい」という法語を与えています。
ところが、そのような法語を与えたのに、その数年後に小島藩では悪政が行われるようになってしまいました。
悪い役人が力をもってしまったようなのです。
あまりの悪政にとうとう小島藩の農民たちが決起しようとします。
白隠禅師はそれを止めるために農民に訟訴をさせたのです。
白隠禅師も当時はさまざまな人脈を持っていました。直接藩主に訴えたら却下されて終わりですから、まず藩主のお父さんのいた江戸の上屋敷に訴状を出しました。
そして目付に出しても握りつぶされると考えて、寺社奉行に訴えを数回出します。
その結果、幕府も訴えを取り上げて、悪い役人たちを一掃するよう松平昌信公に命じるのです。
このようにして誰も血を流さずに白隠が完全勝訴したという記録が残っています。
その後、白隠禅師は駿河の西島にある光増寺へお説法に行きました。『大灯録』を提唱したとありますが、白隠禅師のお説法を聴きに民衆が蟻のように集まって、お寺の本堂の床が抜けたというのです。
白隠禅師は、百姓一揆が起こるかもしれないという地獄の中に下りていったのです。
自分たちのために村を救ってくれた。そんな白隠禅師の慈悲の心に感激して、たくさんの人々が集まったのでしょう。
白隠禅師は、その生涯を静岡県の原にある松蔭寺という町寺にいて、人々の苦しみを見たり聞いたりされていました。
そこで見るに見かねて大名に贅沢を諫める法語を残したりしています。
地獄に苦しむ人々の声が白隠禅師に聞こえていたのです。
そして、自ら地獄に降りてゆかねばならないと目覚められたのです。
地獄の怖ろしさに幼くして気がつき、地獄から逃れる修行をなさって、さいごには自ら地獄の降りていって、地獄の中の菩薩として多くの人々の為に我が身を惜しまずに教えを説き続けられたのでした。
そんな白隠禅師のご生涯を表したのが「南無地獄大菩薩」という書であると思っています。
横田南嶺