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臨済宗大本山 円覚寺

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2021.11.21
今日の言葉

もっと親切でありたい

むかしの禅僧は、元旦を迎えると、辞世の言葉を記したといわれています。

今はそのようなことをなさる方も少ないと思いますが、自分の一生を振り返って一語残したのです。

毎年年の初めに書いておけば、必ずいつかその年に亡くなることになります。

するとその年の初めに書いたものが、辞世の言葉、遺偈となりました。

主に漢詩で書かれたものであります。

雲巌寺の植木憲道老師には、すばらしい遺偈、辞世の言葉が残されています。

先日千葉県のあるお寺の和尚の葬儀にお参りしてきましたが、そのお亡くなりになった老僧が、長い間植木老師にお仕えされた方でした。

そんなご縁で、植木老師の最期の言葉がそのお寺の本堂に掲げられていたのでした。

ひとつは、

「非と論じ是と説く、九十七年。近くお別れする、ありがとう、ありがとう、みなさんによろしく」と認められました。

非と論じ是と説くとは、是も非も、良いも悪いも様々論じてきた、良いことも辛いことも嫌なことも様々なことがあったというのです。

それが今となっては、近くお別れをすることになりました。

言い残すことは、「ありがとう、ありがとう」です。

「どうぞみなさんによろしく」と。

実に趣のある言葉で、さすが植木憲道老師だなと思われます。

禅僧といいますのは、そのように死を見つめてどう生きるのか常に考え続けていたのであります。

さらに植木憲道老師は、もう一つ「死に直面して」という言葉を残されていました。

遺偈はあらかじめ書かれたものかもしれませんが、この「死に直面して」という書は、本当に死の間際に書かれたものと思われまして、手も震えていて字も読みにくいのでありました。

しかしよく見つめているとようやく読むことが出来ました。

「死に直面して」四つのことを書かれていました。

一つ、もっと親切でありたい。

一つ、もっと正直でありたい。

一つ、もっと真面目でありたい。

一つ、もっと寛容でありたい。

という四つの言葉です。

この四つの言葉を死に直面して書き残されたのであります。

私はこの書をじっと見つめて、ようやく字が読めるようになってとても驚きました。

お若い青年がこれから人生の抱負を書かれたのではありません。

九十七歳の老師が書かれたのです。

それに人格がまだ未熟であったわけではありません。

もう禅の修行もなし終えて、地元の人達からも生き仏の如くに慕われていた老師です。

人間としてほぼ完成に近いような老師が、死に直面して「もっと親切でありたい、もっと正直でありたい、もっと真面目でありたい、もっと寛容でありたい」と言われるのです

死に直面しても、なおも自分自身を見つめることを忘れないのです。

まだまだ足らないという謙虚な反省がございます。

まだまだ、もっと人様に親切にしなければならない。まだまだうそ偽り無く真っ正直に接しなければならない。もっと真面目に勤めなければならない。

これ以上の真面目は無いほどに、真面目に勤め上げた老師にして言われる言葉なのです。

そしてもっと寛容でありたい、人を許す心をもっと養いたいと言われます。

私たちのある勉強会でこの話をしますと、勉強会の講師である駒澤大学の小川隆先生は、この四つの言葉のうちの二つは、正直と真面目とは自分のことで、親切と寛容ということは他人に対する関わり方だと指摘されました。

禅とは自己を探求することだと言われますが、それだけではなく必ず他者との関係において成り立つものだと指摘してくださいました。

そして次のような禅の問答をご教示くださいました。

『祖堂集』にある話ですが、小川先生の訳を紹介させていただきます。

ある日、昼食ののち、ひとりの僧がふらりとやって来た。彼は威儀を整えるとすぐ法堂(はっとう)に上り、馬祖に相見の礼をなした。

 馬祖、「昨晩は、どちらにおった?」

 僧、「この山のふもとにおりました」

「飯は食うたのか?」

「いえ、まだ食べておりません」

「庫裏(くり)に行って、何か食わせてもらえ」

僧はハイと答えると庫裏(くり)に行った。

その時、百丈が典座を務めていた。百丈は自分の飯を分けて彼に供養(くよう)してやった。彼は食い終わると、そのままどこかへ去っていった。

百丈が法堂に上ると、馬祖が問うた、「さきほど、まだ飯を食うておらぬという僧がおったが、供養してやったのか?」

「はい、供養いたしました」

「うむ、おぬしは将来、たいそうな福徳の人となるであろう」

「なぜでございましょう?」

「あの僧が辟支仏(びゃくしぶつ)であったからだ」

「ならば、ふつうの人間である和尚さまが、なぜ、聖者である辟支仏の礼拝を受けられたのでしょうか?」

馬祖いわく、「神通(じんづう)変化(へんげ)は確かにできよう。だが、一句でも〝仏法〟を説くとなれば、このわしに及ばぬのだ」

辟支仏というのは、「独覚」とも訳されて、ここでは「無師独悟で道を悟り、それを人に伝えることなく一人で道を享受する聖者」という意味です。

そこで小川先生は、

「禅が自ら道を得て終るものではなく、必ずそれを一言なりとも他者に説き伝えるべきものだということです。

「辟支仏」(縁覚・独覚)は自らが聖なる道を得るだけで、それを人に伝えようとはしません。」
と説明してくださり、

更に

馬祖禅師は「自分の得ている「仏法」がかの「辟支仏」より上だと言っているのではなく、それを一句なりとも他者に「説く」という一点において、自分は独善の聖人たる彼に勝るのだと言っているのです。

禅は人と人との間に成り立つinteractiveな宗教であり、他者と関わらない自分一人だけの悟りというものは、禅宗には存在しないのです。」

と教示してくださいました。

私など、ふとこの頃はもう自分もこんなものでいいかなと思ったりしてしまうことがあって大いに反省させられました。

とても植木老師のようなご境涯には及びもしませんが、もっと親切に、もっと正直に、もっと真面目に、もっと寛容にと自らに言い聞かせて生きようと思いました。

 
横田南嶺

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