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臨済宗大本山 円覚寺

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2021.11.10
今日の言葉

不当な仕打ちにあう

先日、僧堂の修行僧達と共に、『碧巌録』の第七十五則の「烏臼の屈棒」という問題について勉強していました。

なかなか分かりにくい問答であります。

およその意味を訳してみます。

ある僧が定州和尚のもとから烏臼和尚のもとにやってきました。

定州和尚というのは、七一八年から八〇〇年にかけて活躍された禅僧です。

烏臼和尚は、馬祖の弟子であるというだけで生没年は分かりません。

八世紀頃の方でありましょう。

烏臼和尚は聞きました。

「定州の仏法はここと較べてどうだ」と。

僧は「違いはありません」と答えました。

烏臼和尚は「違いがないのなら、わざわざここに来ることもない、またあちらへ戻れ」と言って、棒で打ちました。

僧は「棒で打つには眼を具えていなければなりません。軽率に人を打ってはいけません」と言いました。

烏臼和尚は「今日は、なかなか見所のある者を打ったぞ」と言ってさらに三度打ちました。

僧はそこで出て行きました。

烏臼和尚は「無実の罰棒を食らうような者もおったのだな」と言いました。

これが屈棒といって、身に覚えのない罪により棒で打たれることを言います。

僧は身を転じて言いました、「棒は和尚の手にあるのですから、どうしようもありません」と。

烏臼和尚は「もし棒が要るのなら、わしはおまえに渡そう」と言いました。

僧は近づいて烏臼和尚の棒を奪い、烏臼和尚を三度打ちました。

烏臼和尚は「無実の棒罰だ、無実の棒罰だ」と言いました。

僧は「その棒を食らうような者もいたもんだ。」と言いました。

烏臼和尚は「軽率に人を打ってしまったものだ」と言いました。

僧はそこで礼拝しました。

烏臼和尚は「そういうやり方なんだな」と言いました。

僧は大笑いして出て行きました。

烏臼和尚は「それだけの資格はある、それだけの資格はある」と言ったのでした。

という話であります。

烏臼和尚が僧を打ったり、僧の方が烏臼和尚の棒を奪って打ったり、礼拝したり、大笑いしたりで、何のことやら分かりにくい話であります。

昔は、棒打ちという刑罰がありました。

鞭で打ったり、棒で打ったりしたのです。

罪によって回数も定められていました。

日本においても、棒打ちの刑罰があったのです。

この問答でいう「屈棒」というのは、罪もないのに棒で打たれることであります。

「屈」というのは、『禅語辞典』には、

「相手の身に覚えのないことを強いる。また、そのような目に会うことをもいう」という解説があります。

そこで「屈棒」は「無実の罪で打たれる罰棒」なのです。

朝比奈宗源老師は、『碧巌録提唱』(山喜房刊)のなかで、このところを提唱して、

「打つ者もなく打たれる者もない奴を、打ったり打たれたりしている。

夢窓国師というと京都の天龍寺の開山ですが、これは本当にあったことかどうか知らんが、ともかく、或る時天龍川の渡しを船で渡った。

その時、天子様のお師匠さまのような偉い坊さんが乗っていることを知らないで、酒に酔った侍が、大層威張って、果てには夢窓国師の頭を打った。

そこでお弟子が大変に腹を立てて、とんでもない奴だといって怒りかけた。

ところが、国師はいきり立つ弟子を戒めて、

打つ者も打たるる者ももろともに如露亦如電 応作如是観

と和歌を示した話を書かれています。

夢窓国師には、何の罪もないのに、打たれたのであります。

毎日新聞を読んでいて、十一月五日の朝刊に仲畑流万能川柳三十周年についての記事がありました。

過去の川柳年間大賞の句のなかに、

殺し合わなくともみんな死ぬものを

というのがありました。

打ち合わなくても、みなやがて、露のごとく稲妻のごとくにはかなく消えてしまうだけなのです。

山田無文老師は『無文全集』の第四巻で、この則の評唱を講義されて、

「この二人の問答のやり取りを見るがいい。

車輪がコロコロと回るように、何の不自由もなく、お互いが言いたいことを言うておる。

しかも、悟りの世界を外れてはおらん。

しかし、相手がどれぐらいの力があるのか、白か黒か、善意か悪意か、その悟りが正しいか間違っておるか、もうちょっと試験する必要があろう。

ここで、この僧が出て行ったままでは、この問答はサッパリである。

まだ結論は出てはおらん。

そこで、烏臼がまだ相手の力がどのぐらいあるか、本当の力量を験す必要があるのである。ところが、この僧もなかなか油断がならん。

門も締まり戸も締まり、なかなか戸締まりがしっかりしておる。」
と述べて更に、

「この二人の商量問答を見るがいい。

やり手とやり手、名人と名人との立ち合いだ。

お互いに打ちつ打たれつ、一出一入、くんずほぐれつ、切れたようでなかなか切れん。次から次へと問答が出て来るのである。そのはたらきをよく見るがいい。

この二人の肚の中は、お互いに立場を換え合い、時に主となり時に賓となってはたらいて行くのである。

どちらかが我を通すならば、こういうはたらきは出て来ないのである。

お互い、法と法の出会いだから、こういうはたらきができるのである。」

と烏臼和尚と、この僧との出逢いを賞賛されています。

不当な棒打ちに出会っても、互角にやり返していて、お互いに何の禍根も残さないのであります。

いろんな目に遭うのがお互いの人生であります。

不当な仕打ちには遭わないに越したことはありません。

それでも避けられぬこともあるでしょう。

打たれっぱなしということもなければ、打ちっぱなしもまたないものでありましょう。

くんずほぐれつしてゆくのであります。

そしてその時その時において全力を出し切って生きるのであります。

二人の問答からそんなことを学びます。

 
横田南嶺

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