禅の生き方
落ち葉などは、ほんとうは土の上に積もって、やわらかくなっている上をカサコソ音を立てながら歩くのがいいと思います。
しかしながら、禅宗のお寺は、葉っぱ一枚、塵ひとつないのがよいという価値観でありますので、毎朝毎朝きれいに葉っぱを箒で掃いて集めて掃除をします。
そんな時に若山牧水の詩を思い起こします。
「枯野の旅」という詩です。
そのはじまりが、
乾きたる
落葉のなかに栗の實を
濕りたる
朽葉がしたに橡の實を
とりどりに
拾ふともなく拾ひもちて
今日の山路を越えて來ぬ
長かりしけふの山路
樂しかりしけふの山路
殘りたる紅葉は照りて
餌に餓うる鷹もぞ啼きし
上野の草津の湯より
澤渡の湯に越ゆる路
名も寂し暮坂峠
きれいな言葉でくちずさむだけで、落ち葉の上を歩いている気持ちになることができます。
枯野の旅は、その後の方で、
草鞋よ
お前もいよいよ切れるか
今日
昨日
一昨日
これで三日履いて來た
履上手の私と
出來のいいお前と
二人して越えて來た
山川のあとをしのぶに
捨てられぬおもひもぞする
なつかしきこれの草鞋よ
という一節がございます。
草鞋に語りかける、何とも言えぬ思いであります。
草鞋を履いて旅をするようなことは現代ではもうありません。
私ども修行道場では、いまも草鞋を履いて托鉢を行っています。
草鞋といっても実際に藁で編んだ草鞋は今や貴重品であります。
私が修行していた頃は、まだ藁で編んだ草鞋をいただくことができていましので、普段は藁の草鞋を履いて托鉢して、雨が降った時には、ビニール紐で編んだ草鞋を利用していました。
藁が入手困難となってしまい、ビニール紐を買ってきて、それで草鞋を編むのであります。
藁の草鞋に比べて、ビニール紐で編んだ草鞋は丈夫で長持ちするのであります。
藁の草鞋は、あまり持ちませんが、使い終えると、鍬やスコップを洗う時にたわしにも使うことができました。
それも使えなくなると、畑に肥料にしたものでした。
今風の「エコ」というのでしょうか、無駄のないものでありました。
藁の草鞋は、破れやすいので慎重に履かないといけないのでした。それだけに足元にまで注意をしたものです。
ビニールになって、雨にも強く、丈夫になると、あまり大切にするという意識が薄らいだようにも思います。
破れて使い物にならくなった草鞋を、「破草鞋」と申します。
『景徳傳燈録』巻二十四に、大歴和尚という方の問答して、
「如何なるか是れ西來意」という問いに対して、
師曰く、破草鞋
という言葉が出ています。
禅とはどのようなものでしょうかという問いに、破草鞋と答えているのです。
『禅語辞典』には、「ぼろわらじ。弊履。行脚(修行〉を長年積み重ねた人にも喰える」と解説されています。
似たような言葉に、「破沙盆」というのもあります。
こちらは『禅語辞典』によると、「「沙盆」は、素焼の脆い盆。「破」は、ひびが入っていること」という解説があります。
よく「かけすり鉢」などと言っていました。
『景徳傳燈録』巻二十六の永明延寿禅師の章に、如何なるか是れ大円鏡と問われて、「破沙盆」と答えているところがございます。
また應庵禅師が密庵禅師に「如何なるか是れ正法眼」と問うて、密庵禅師が「破沙盆」と答えたことが知られています。
完全な智慧である大円鏡智や、真理を観る眼を問われて、全くその対極にあると思われるような、破沙盆と答えているのであります。
これは何を意味するのでしょうか。
私たちは草鞋のおかげで歩くことができます。
草鞋がないと、足にけがしてしまい、たいへんなことになるのです。
どれほど有り難くても、この草鞋のおかげだといって、大事に持っていては旅を続けることは困難になります。
昔の草鞋であれば、畑の肥料になったのでした。
禅の修行では禅問答を行います。
その時に使われる問題を公案と言います。
公案というのは、門を敲く瓦のようなものだと申します。
門の中にいる主に会いたいのです。
門の外から声をかけても聞こえません。
そのへんに落ちていた瓦を拾って、それで門を敲いて、中にいる主に出てきてもらいます。
主に出会うことができれば、もう瓦に要はないのです。
公案なども、幾つ公案を調べたなどと数を数えているようなのは愚かなことだと言われます。
自己の主に会うことが大切なのですから、そのために用いた公案を後生大事に持っておく必要はないのです。
「大円鏡智」といい、「正法眼」といい、そのような言葉を用いて、お互いが本来持って生まれた智慧に目覚めさせるのです。
目覚めることができたならば、そんな言葉は、もはや破草鞋であり、破沙盆なのであります。
有名なプロ野球選手のホームランボールならば、それ相応の価値もあるのでしょう。
しかし、本当はそのボールに価値があるのではなく、その選手が長い間血の滲むような鍛錬を経て、ホームランを打ったということにこそ価値があるのです。
比叡山で千日回峰行を二度も成し遂げられた酒井雄哉大阿闍梨は、
行き道はいずこの里の土まんじゅう
という言葉を好んでいたといいます。
破草鞋も「十字街頭の破草鞋」と使われることがあります。
使うだけ使って、大勢の人が行き来する往来に捨てられるのであります。
人間もはたらくだけはたらいて、精いっぱい生ききって、破草鞋になればそれでいいと私は思っています。
履いて履いて、歩いて歩いて、履きつぶれて破草鞋になる、それが禅の生き方かと思います。
横田南嶺