禅とどろぼう
五祖法演禅師が、禅とは何かをどろぼうの譬えで説かれています。
大慧禅師の『宗門武庫』にある話です。
泥棒の息子がソロソロうちの親父の年だし、どうかしてこの盗人の技を受け継いでおきたいものだと考えて親父に頼みます。
親父は、それを聞いてよし心得たと言って、ある晩に息子についてこいと言って、大きな金持ちの屋敷に入ります。
大きな蔵があってそこに入って、中にこれまた大きな長持ちが御座います。
そーっとその長持ちを開けて、まず息子にこの長持ちの中に入って、衣装や宝物を取り出せと命じます。
息子は言われるままに中に入ります。さて息子が中に入ったところで、何と親父はその長持ちのふたをして、鍵をかけて、しかも大きな音を出して「泥棒だ!泥棒だ!」と叫んで家中の人を起こしてしまいました。
そして親父は息子をおいて自分だけそっと先に逃げて帰ってしまいました。
家の人はさて泥棒だと思って灯りを付けて、蔵の中に入ってきます。
息子は長持ちに閉じこめられたまま、にっちもさっちもいかない。
さてどうしたものか窮地に追い込まれてしまいます。
親父はこんな仕打ちをして一体何を考えているのか、恨んでもしょうがありません。
悶々とする中に一計を案じて、鼠がカリカリ、カリカリ物を噛む音を出しました。
そうすると家の者は長持ちの中に鼠がいるかと思って、灯りを付けてそーっと長持ちのふたを開けてみます。
さてそのふたの開いた瞬間に、息子はぱっと中から出て灯りの火をフッと吹き消して、蔵の外に走り出ます。
家の者は「泥棒だ、泥棒だ」と言って追いかけます。
息子は庭に井戸があるのを見て、中に大きな庭石をどぶんと落としました。
そうすると家の者達はその音を聞いて、泥棒が井戸の中に落ちたかと思って、井戸の周りに集まって灯りを付けて井戸の中をのぞき込みます。
その隙に息子はどうにか逃れて家に帰ります。
親父にどうしてこんなひどいことをしたのかとなじります。
親父は「まあそんなに怒るな、一体どうして逃れてきたか話してくれ」と言いますので、事の顛末をこれこれしかじかと話して聞かせると親父は、それを聞いて「よしそれならばよかろう」と息子を許したと申します。
泥棒の極意などというものは、マニュアルのようなものを作って伝えられるものではないのです。
「庭に出たら井戸に石を投げ入れる」などいうマニュアルにしてしまうと、井戸や石をさがしているうちに捕まってしまうのです。
自ら体究錬磨して知るのみなのであります。
そこで禅は「不立文字、教外別伝」というのです。
文字や教科書に頼らないのです。
また泥棒のことについて、「白拈賊」という言葉もあります。
白というのは、白昼ということで、拈というのは取ることです。
白昼のすりのことを言います。
または、白を無の意味にとって、刃物も何も持たずにものをかすめとることだとも言われます。
『碧巌録』第三十則に、ある僧が趙州和尚に、和尚は南泉禅師に直々にお目にかかったことがあるそうですが本当ですかと聞くと、趙州和尚は、「鎮州では大きな大根がとれるぞ」と答えたという問答があります。
その問答に対して圜悟禅師が、趙州和尚のはたらきをまるで「白拈賊」のようだと評しています。
また同じく『碧巌録』の第七十三則にも、圜悟禅師の評唱のなかに、臨済禅師の説法の様子が説かれています。
あるときに臨済禅師が、「この肉体に無位の真人がひとりいてつねにあなたたちの顔から出入りしている、まだ見届けていないものは、さあ見よ、さあ見よ」というと、一人の僧が、「無位の真人とは何ものですか」と問いました。
臨済禅師は席を降りて、その僧をひっ捕まえて、「さあ言え、さあ言え」と迫ります。
僧が何も言えないでいると、臨済禅師は、無位の真人は干からびた糞の棒だと言ったのでした。
この問答を後に雪峰禅師が取りあげて、臨済禅師はまるで「白拈賊」のようだと言ったのです。
岩波書店の『現代語訳 碧巌録』には、「白拈賊」を「かっぱらい」と訳されています。
「かっぱらい」は、『広辞苑』によると、「人の油断・すきをねらって、物品を盗むこと。また、その盗人。」という意味です。
禅というのは、何かを得る、つかまえるものではなくて、捨てる、無くす修行なのです。
禅でいう泥棒というのは、相手が大事に抱えている煩悩妄想、悩みや苦しみを盗み取ることを言います。
しかも白昼堂々と行うスリのようだというのですから、相手も気がつかないうちに取ってしまうのです。
相手が抱えているもの、思いや煩いなどを取り除いてあげることこそが、最高の慈悲なのです。
しかも、なにも気づかぬうちに除いてあげるのです。
何気ない話でもしているうちに、気がついたら、悩みがすっと消えていたというようになれば、上々の白拈賊なのです。
もっと言えば、その人の顔を見ただけで、ホッとして悩みが消えるようになれば、いうことはありません。
それにはこちらが、無心でいることが一番大切であります。
火のまわりにいると自然と暖かくなるようなものだというように、無心の人のそばにいると自然と心が安らぐようになれるといいのです。
これは容易なことではありません。
やはり長年の修行が必要であります。
しかもマニュアルではない、真剣な修行が大事なのです。
横田南嶺