icon_arrow-r_01 icon_tryangle icon_search icon_tell icon_download icon_new-window icon_mail icon_p icon_facebook icon_twitter icon_instagram icon__youtube

臨済宗大本山 円覚寺

臨済宗大本山 円覚寺

  • 円覚寺について
  • 拝観案内・アクセス
  • 境内案内
  • 年間行事・法要
  • 管長のページ 2025.06.17 更新
  • 法話会・坐禅会・
    写経会
  • 御朱印・御祈祷
  • 円覚寺売店
  • お知らせ
  • Q&A
  • リンク

© 2019 ENGAKUJI
ALL RIGHTS RESERVED.

お問い合わせ

2021.11.07
今日の言葉

真に帰るところ

少し以前に、鎌倉に猿が出たという報道がありました。

いろんなところに、猿が現れるようであります。

寺には、小さな畑がありますので、猿が出てくるとたいへんだなと思っていました。

猿は、漢詩などでもよく詠われています。

古木、寒鳥鳴き,
空山、夜猿啼く。

などという言葉はよく知られています。

猿は子を抱いて青嶂の後に帰り、鳥は花を啣んで碧巌の前に落つ

という禅語もございます。

「嶂」というのは、「みね。ついたてのようにさえぎり立つ山」のことです。

猿は子を抱いて、青々とした高く険しい山の向こうに帰ってゆき、鳥は花をくわえて緑の岩の前に舞い降りたという意味です。

美しい光景であります。

これは、夾山禅師(八〇五~八八一)の言葉として知られています。

修行僧が、如何なるか是れ夾山の境と質問しました。

夾山は、澧州にある山であります。

夾山というのはどんな処でしょうかと、景色を問うているようですが、夾山禅師の悟りの心境を問うているのであります。

その問いに対して、夾山禅師は、

猿は子を抱いて青嶂の後に帰り、鳥は花を啣んで碧巌の前に落つ

と景色を表す言葉で答えたのでした。

禅語にはいろんな解釈をすることができます。

猿が山の向こうへ帰ってゆく、無心の姿、鳥が巌の前に舞い降りる無心の姿を現していると受け止めることもできます。

無心の尊さであります。

なんのはからいもないところです。

または、こういう禅語を引導法語に用いる場合もあります。

人は死んでどこに帰ってゆくのか。

「生は寄なり、死は帰なり」という言葉があります。

『淮南子』にある言葉で『広辞苑』には、「人は天地の本源から生まれて暫くこの仮の世に身を寄せるに過ぎないが、死はこの仮の世を去ってもとの本源に帰ることである。」

と解説されています。

もとの本源のところに帰るというのを、猿は子を抱いて青嶂の後に帰り、鳥は花を啣んで碧巌の前に落つと表現するのです。

無心に大自然の中に溶け込んでゆくような趣であります。

この夾山禅師という方は、もとは、仏教学の講義をしている方でありました。

ところが、自分の講義を聴いていた道吾禅師という禅僧が失笑したのでした。

仏の真の姿とは何かという問いに、真の姿に形はないと答えたのでした。

答えは悪くないのですが、まだ本当のことが分かっていないと思われたのです。

ずいぶん失礼な話ですが、夾山禅師は自分のどこに落ち度があるのかと問いました。

道吾禅師は、直接答えることはせずに、船子和尚の処へ行くように指示しました。

この船子和尚というのは実に変わった禅僧で、薬山禅師のもとで修行を終えて後、船の上で暮らしていました。

薬山のもとで修行仲間だった道吾禅師に、もしも「これは」と思う禅僧がいたら、私の処へ寄こして欲しいと頼んで、自身は船の上で思いのままに暮らしていました。

そこで夾山禅師を行かせたのです。

船子和尚は、この夾山禅師と船の上で問答しました。

激しい問答のやりとりが続くのですが、夾山禅師はは船から水中に落とされたりしながらもついに、悟りを開きました。

船子和尚も、自分が薬山禅師のもとで得たものを、あなたも体得できたとその悟境を認めました。

夾山禅師が、船子和尚のもとをお暇しようとしました。

船から降りて、岸に上って、何度も何度もお辞儀をして別れを惜しんで去ってゆきます。

すると船子和尚が、「オイ、和尚よ」と呼びました。

夾山禅師が振り返ると、船子和尚は櫂を立てて合図しながら、船をくつがえして入水して亡くなりました。

自分の教えを受け継ぐ者が出来たら、もう用はないというのでしょうか。

こんな壮絶な修行をしたのが夾山禅師なのです。

時代が下って圜悟禅師が、この夾山の霊泉院に居て講義をしたのが、後に『碧巌録』と呼ばれる書物となりました。

圜悟禅師がいた方丈に「碧巌」と書いた扁額がかかっていたのでした。

この「碧巌」は、夾山禅師の言葉によります。

人は死んでどこにゆくのか、死は帰ることであるというのならば、どこに帰るのか。

立花隆氏は『死はこわくない』という本のなかで、

死について「自分はずうっと落ちていく雪のようなもので、最後に海にポチャンととけて自分が無くなってしまう。そして最後に自分は海だったと思い出す」と表現されています。

大いなる命に帰るというところでありましょう。

仏心の中に帰るということもできましょう。

東京書店から出された『生きるってなに?死ぬってなに』という小学生高学年から中学生向けの本で、私は、

「亡くなった人たちはみな、どこへ行くのでしょうか。」という問いに、

「坐禅を通して、長年おしゃかさまの教えと向き合ってきた私がたどりついた答えは、「どこへも行かない」です。

納得がいきませんか?

では、例を挙げて説明していきましょう。

海へ行って砂浜を歩いていると、波うちぎわにぷつぷつとした、たくさんの白いあわがあるのを見かけますね。

このあわが、人がこの世で生きている姿だとします。あわははかなく、すぐにはじけて消えてしまいます。これが「死」だと考えてみるとどうでしょう。

あわがはじけて消えると、なくなったようにみえます。でもあわは、もとの海にかえっただけです。つまり、大きな自然のなかにもどったのです。」

と答えています。

仏心という大きな海に帰るのです。

そんなところを、夾山禅師は、

猿は子を抱いて青嶂の後に帰り、鳥は花を啣んで碧巌の前に落つ

という言葉で表現されたのでした。

 
横田南嶺

真に帰るところ

前の記事
次の記事

カテゴリー

  • 僧堂提唱(37)
  • 坂村真民 詩(88)
  • 掲示板 (今月の詩)(31)
  • 今日の言葉(2112)
  • 今日の出来事(164)
臨済宗大本山 円覚寺

〒247-0062 鎌倉市山ノ内409  
TEL:0467-22-0478

  • 円覚寺について
  • 拝観案内・アクセス
  • 境内案内
  • 年間行事・法要
  • 管長のページ
    • 管長侍者日記
    • ビデオ法話
    • 回覧板 (おしらせ)
  • 法話会・坐禅会・写経会
  • 御朱印・御祈祷
  • お知らせ
  • リンク
  • 円覚寺売店
  • Q&A
  • お問い合わせ