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臨済宗大本山 円覚寺

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2021.11.04
今日の言葉

この上ない宝はどこにあるのか

『法華経』には、いくつもの譬え話が説かれています。

その中に、衣裏繋珠という話がございます。

ある貧乏な男が金持ちの親友の家に招かれて、お酒に酔って眠ってしまいました。
親友は遠方の急な知らせがあって、やむを得ず外出することになりました。

眠っている男を起こそうとしたのですが起きませんでした。

そこで彼の衣服の裏に高価で貴重な宝珠を縫い込んで出かけました。

男はそんなことは知らずに起き上がると、友人がいなくなっているので、また元の貧乏な生活に戻って、あちこちの国を流浪し、少しの収入でどうにか暮らしていました。

時を経て再び親友と出会いました。

友人は、我が友が相変わらず貧しい暮らしをしていることに驚きました。

あなたには、生涯生活に困ることのないようなすばらしい宝珠を衣の裏に縫い込んでおいたのにと聞かされました。

はじめてそのことに気づいた男は、ようやく宝珠を得ることができたのでした。

この物語では、金持ちである親友は仏であることを示しています。

私たちにこの上ない宝を与えていることを説いているのです。

中江藤樹先生が、「人々の心の中に明徳と名づけたる無価の宝あり。これを性命の宝と云、天下第一の宝なり。」

と説かれています。

無価の宝とは、価値の無い宝ということではなくて、価のつけようのないすばらしい宝ということです。

『寒山詩』にこんな詩がございます。

寒山頂上、月輪孤なり
晴空を照見して一物なし
貴ぶべし天然無価の宝
五陰に埋在して身軀(しんく)に溺る

意訳しますと、

寒山の頂上には、丸い月ひとつだけがある。

晴天を見渡してもなにもない。

分かるだろうか、天然自然の価のつようのない宝が、

あなたの身心の奥深くに埋もれていて、身体に埋没しているということです。

澄みわたった青空に浮かぶ丸い月は、仏心を表します。

それこそが、この上ない宝、価のつけようない宝なのです。

それが五陰に埋もれているというのです。

五陰というのは、五蘊と同じです。

五つの構成要素を言います。お互いの身体と心のはたらきです。

五蘊は、たびたび申し上げていますが、色受想行識の五つであります。

色というのは、身体であり、そこには眼耳鼻舌身という感覚器官が具わっています。

そして、その感覚器官が外界に触れるのです。

触れることによって、まず感じるのです。

受というのは感受です。まず快か不快かを感じます。

これは自然のはたらきです。

たとえば赤ん坊が産まれた頃から具わっているはたらきなのです。

赤ん坊が母親に抱かれると、心地よく感じます。

知らない人に抱かれると不快に感じるのです。

自然に起こるはたらきが感受作用です。

感じたことに想念が起こります。

母親に抱かれると、心地よいものですから、喜ぶのです。うれしいのです。

知らない人に抱かれると、不機嫌になって怒るのです。

その想念が、さらに強く形成されてゆきます。それが「行」であって、意志と言います。

母親に抱かれると心地よいと感じて(受)、嬉しいと喜び(想)、母親を愛するのです(行)。

その結果、母は私とって、すばらしい無くてはならないもの、善なるものであり、美であると認識するのです(識)。

これが五蘊なのです。

仏教は自己とは五蘊であると説きます。自己というひとつの塊ではなくて、五つの集合要素の集まりなのです。

おいしいお菓子をいただいたとします。

まず口に中に入れて舌がそれを味わいます。身体が色です。

舌で、味わって、何ともなめらかで甘くて心地いいと感じます。これが受です。

おいしいお菓子を味わうと、嬉しくなり、喜びます。これが想です。

こんなおいしい菓子をまた欲しいと思います。買ってこうよかと思います。これが行です。

そうして、そのお菓子屋の菓子はおいしい、そのお菓子を下さった方はいい人だという認識を生じます。これが識です。

このようにして、外の世界をすべて色づけしてゆくのです。

自己というのはこの五つの集まりに過ぎないのです。

この五蘊が空であると説いたのが般若心経です。

空ということのもともとの意味は、それ自体では成り立たないことを言います。

身体も、地水火風と四つの元素の集まりで成り立つものです。

感受も想念も意志も認識も、それぞれ、感覚器官と外の世界が触れて仮に現れた現象にすぎないのです。

そんな仮に現れた現象が作り出しのが自己であり、自己は幻影でしかないというのが、五蘊が空であることなのです。

この上ない宝が五蘊に埋没しているというのです。

では、どうしたらこの上ない宝に気がつくことができるでしょうか。

そこで仏教では、まず自己とは五蘊という五つの構成要素の集合体であると知ることから説きます。

五蘊に作り出した幻影に惑わされていては、宝は見えません。

感覚を刺激してくれるものが決して宝ではないのです。

それは儚くもろくやがて失われてゆくものであり、苦悩をもたらすものでしかありません。

「汝等諸人、各自に身中に無価の大宝有り。」と説いたのは、大安禅師でありました。

大安禅師は百丈和尚のお弟子であります。

馬祖禅師は、仏法を求めてきたという弟子に、あなたのすばらしい宝を見ずに、なにを外に求めるのかと言いました。

ではそのすばらしい宝とは何ですかという問いに、今そのように問う者が宝だと示されたのでした。

宝は、この身心にあり、いやこの身心まるごとが宝であると示したのが、馬祖禅だと言えましょう。

お互いこの上ない宝であるこの身心を大切にしましょう。

 
横田南嶺

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