万物と我と一体
もとは、肇法師の言葉であります。
肇法師は、西暦三八四年に生まれ四一四年に亡くなっています。
中国、後秦時代の学僧です。
鳩摩羅什(くまらじゅう)に師事した夭逝の天才であったと言われます。
中国古典とりわけ老荘を好み、支謙訳の維摩経(ゆいまぎょう)を読んで仏教に転じました。
羅什を訪ねてその門に入り、長安ではその訳経を助けました。
肇法師は、羅什を師とし、仏法ひとすじ、心身をささげていましたが、たまたま、ある時、秦王の怒りにふれ、処刑されることになってしまいました。
肇法師は七日間の猶予を乞い、許されて、その間、「宝蔵論」という書物を書き上げました。
かくして肇法師は斬刑の場に臨み、次のような遺偈を残したのでした。
四大元主無し、五蘊本来空 頭をもって白刃に臨めば、猶春風を斬りに似たり。
四大という地・水・火・風の元素で成り立つ人間の肉体にはもとより主は無い。
したがって五蘊という五つの構成要素も本来空である。
まさに首を差しのべて白刃に臨めば、さながら春風を斬るようなものだというのです。
この詩は、仏光国師の臨剣の偈のもとになっているとも言われます。
『肇論』という書物を残れていますが、これは「般若無知論」「物不遷論」「不真空論」「涅槃無名論」に「宗本義」を付したものです。
「天地と我と同根、万物と我と一体」という言葉は「涅槃無名論」にあります。
肇法師は、五世紀の方なので、まだ達磨大師が中国に来られる以前の方であります。
禅が興る以前に、肇法師のこのような言葉が中国の仏教において用いられていたのでした。
この「天地と我と同根、万物と我と一体」という言葉は、『荘子』の斉物論にも似た言葉があります。
それは、
「天地と我と並び生じて、万物と我と一体」という言葉です。
「天地と私とは一緒になって存在しており、万物と私とは一つになっているのだ。」という意味です。
天地と我と一体という考えは、すでに古くから中国において存在していたのでした。
肇法師は、老荘思想も学んでいたというので、当然影響があったと思われます。
仏教で説く、「空」「無我」という教理を、「天地と一体」という言葉で表現されたのでした。
天地と一体であれば、独立して存在する自我は無いことにつながるのであります。
後に禅では、この「天地と一体」であることを体感することを尊び、天地と一体となって生きることを実践するようになったのでした。
『碧巌録』では、次のような問答として取りあげられています。
およそ意訳しますと、
陸亘太夫が南泉禅師と話をしていて、言いました。
「肇法師が『天地と我と同根、万物と我と一体』と言っていますが、実にすばらしいですね」
南泉禅師は、庭前に咲いている牡丹の花を指して、太夫を呼んで言いました。
「世間の人は、この一株の花を見ているが、あたかもゆめまぼろしを見るようなものだ」と。
『無文全集第二巻』にある山田無文老師の提唱を拝見してみましょう。
「時の人は、世間の人ということ。皆この花を見るのに、きれいだナア、よう咲いとるナア、と眺めて褒めるけれども、ボンヤリ客観的に眺めているだけである。
この花を自分だと受け取るような人が、いったい世間にどれだけいるか。
この花を見て、俺が咲いておると感じ得るような人が、世間にどれだけあるか。
漫然と、よう咲きましたナア、きれいですナア、と言うぐらいと違うか。
おまえさん、「天地と我れと同根、万物と我れと一体なり」と立派なことを言わっしゃるが、この花とおまえさんとどう一体じゃ。どう同根だ。そんなつまらん理屈を言うものではない。おまえさんの言うことは観念の遊戯だ。そんな知解分別では駄目じゃ、と。こうあっさり南泉に蹴られたわけである。」
ということであります。
天地と我と一体、同根であると理論だけで分かっていてもなにもならないということであります。
自分というのは自然の分身だと言った方がいましたが、まずは天地自然の一分身なのだと感じて坐ることであります。
禅の修行では、まずこの天地と同根、万物と一体となることを目指して坐禅しますが、決してそこにとどまるものではありません。
世間でも都会の喧噪を離れて、大自然の中で悠々と暮らしていれば、天地と同根、万物と一体と感じられることでしょう。
老荘思想などは、そのような境地を目指したものだと思います。
しかし、禅では、そのような悟りにとどまることも嫌うのであります。
再び、喧噪の世の中にもどってきて、しかも天地と同根の心境を失わずに、毎日毎日細々とした仕事を淡々と勤めてゆくのです。
それでいて、周りにいる人たちに自然とよい影響を与えてゆけるようになるのです。
「天地と我れと同根、万物と我れと一体なり」などという言葉をわざわざ用いなくても、そのたたずまい、その歩き方、一挙一動が悉くが、天地とひとつになっていることが大切なのであります。
いや、理論以前に、天地とひとつになって息づいている消息があるのです。
横田南嶺